それが端的に出るのは、「論文の書き方」の指導だ。欧米の大学では、昔の日本の大学では指導されることがなかった、論文の書き方のさまざまな決まり事を徹底的に指導される。論文は「序論→本論→結論」の構成になってないといけないとか、序論ではこの論文で書かれる内容が全て要約されて入ってないといけないとか、結論で本論になかった内容が新たに入ってはいけないとか、講師が繰り返し、しつこいくらい学生に話すのである。

 この論文作成の「型」は非常によくできたものだ。その型に従ってエッセイを書く作業をしていけば、自然に論理的な思考が練り上がり、文章が完成していくようになっている。論理的思考のパターンが次第に身に着いていくのだ。筆者は留学していた頃、日本に帰国した時には、日本の大学生に対して、「型」をしっかり教える教育をしようと考えていたものだった。

 また、欧米の大学の小集団クラスも、非常に「規律」「型」に拘ったものだった。修士課程(博士前期課程)時代、ある小集団クラスの担当は、後に博士後期課程で筆者の指導教官となったローザ・ミューレ博士だった。ローザは、ザッケローニ監督と同じイタリア人であったが、その厳しさは以前この連載で紹介した(第32回を参照のこと)。

 今回紹介するのは、ローザが小集団クラスで議論の「型」を重視していたことだ。毎週のセミナーでは、「発表者」と「討論者」を決めて、発表者、討論者の順に発表させた。発表者、討論者には、事前に与えた共通の「質問」に対して、「賛成」「反対」の議論を展開することを求めた。その後、他の受講生を議論に加えていった。このような「型」を毎週徹底的に守って学生の議論を進めさせた。

 すべての受講生には、等しく発言の機会を与え、主張を明確に述べることを求めた。だから、議論がわからないからといって、逃げることはできなかった。日本から来たばかりで英語力も、思考力もまだまだ十分ではなかった筆者には、大変厳しいものであった。

 更に、カリキュラムの内容である。社会学、政治学、歴史学、人類学、文学、など文系の学部、大学院では基本的に西洋哲学の基礎的理論を勉強するところからコースが始まる。現代では細分化された学問分野も、根本的な理論は同じであり、それを理解しないと全てが始まらないという考え方だと思われる。