世界のNOBUと世界初のミドリムシベンチャー「ユーグレナ」。そこには包丁一本の料理人と、試験管一本の研究者がいる。この2人の求道者たちは、どのような哲学を持って自らの夢を実現したのだろうか? 
「NOBU」ファンになっていく出雲充、そしてミドリムシの愛用者、松久信幸。松久信幸による新著『お客さんの笑顔が、僕のすべて! ――世界でもっとも有名な日本人オーナーシェフ、NOBUの情熱と哲学』の発売を機に、世界一の料理と、世界初のミドリムシをめぐる、情熱の哲学を語り合う。(取材・構成:森旭彦)

大きな挫折の先にあった、貴重な出会い

出雲 著書に「オレの人生、これで終わりだ」と書かれているエピソードが印象的です。ノブさんはペルーのお店でパートナーと喧嘩別れして、アルゼンチンを経て失意の中で帰国され、さらに一縷の望みを持ってアラスカに渡り、やっとできたお店がたった50日で火事でなくなってしまった……。その時、いったいどうやって立ち上がったんですか?

松久 アラスカのお店が燃えたから今があると思ってます。出雲さんも、ライブドア事件との関わりの中で大きな挫折を経験されたと思います。

出雲 ライブドア事件を通して、私は自分の周りにいる人のうち、誰が大切な人かということがよく分かりました。当時は堀江さんの影響力もあって、ユーグレナの周りにはいろんな人がいました。しかし事件が起こって、みんないなくなったんです。そこで残ってくれた取締役の鈴木健吾と福本拓元、そして中野長久先生は、一生の仲間だということがよく分かったんです。貴重な体験だったと思っています。

包丁一本の料理人と、試験管一本の研究者が語る哲学<後半><br />

松久信幸(まつひさ・のぶゆき)[「NOBU」「Matsuhisa」オーナーシェフ]1949年、埼玉県で材木商の三男として生まれ、父を7歳の時に交通事故で亡くす。14歳の時に兄にはじめて連れていってもらった寿司屋でその雰囲気とエネルギーに魅了され、寿司職人になると心に決める。東京の寿司屋での修業後、海外に出てペルー、アルゼンチン、アメリカでの経験を基に、和をベースに南米や欧米のエッセンスを取り入れたNOBUスタイルの料理を確立した。
1987年、アメリカ・ロサンゼルスにMatsuhisaを開店。ハリウッドの著名人たちを魅了し大人気となる。1994年、俳優ロバート・デ・ニーロの誘いに応えNOBU New Yorkを開店。さらに、グローバルに展開し次々と店を成功に導く。2013年4月、ラスベガスにNOBU Hotelをオープン。2014年現在、5大陸に30数店舗を構え、和食を世界の人々に味わってもらおうと各国を飛び回っている。
主な著書に、『Nobu the Cookbook』『nobu miami THE PARTY COOKBOOK』(以上、講談社インターナショナル)、『nobu』(柴田書店)、『NOBUのすし』(世界文化社)などがある。

松久 僕はアラスカのお店が火事になったとき、本当に死のうと思っていた時期がありました。でも、死なずにいたから今がある。大きな挫折は、その人に与えられた人生の宿題なんです。神様はその人に期待をすればするほど、大きな宿題を与える。僕は一歩間違えば死を選んでいたかもしれないほどです。でもそれは今思うと、神様が与えた宿題だったんです。

 宿題はやらないといけない。その時の僕は、ただ1日1ミリでもいいから前に進みたいと思ったんです。とにかく生きて仕事をしていたら、前に進むことができる。僕にとっては何をやっても無駄ではない。無駄から学んだこともたくさんありました。

 そうして一生懸命に生きていたからこそ、助けてくれる人が現れて、今に僕を繋いでくださったんだと思っています。

 出雲さんには「ミドリムシで地球を救う」という壮大なテーマがあります。僕は自分の人生に後悔はないけれど、自分より若い人が、いろんなチャンスの中で経験をしているとき、すごく羨ましく感じますね。