「ザ・ワールド50 ベスト・レストラン2013」で世界3位に選ばれた「オステリア・フランチェスカーナ」。このお店でスーシェフを務めていたのが徳吉洋二シェフ。「いかに海外に出ていき、成果を上げたのか」『なぜ、日本人シェフは世界で勝負できたのか』著者の本田直之氏がインタビューします。

1冊の雑誌が運命を変えた

徳吉洋二 シェフ
Yoji Tokuyoshi / Osteria Francescana
イタリア オステリア・フランチェスカーナ
1977年、鳥取県生まれ。専門学校卒業後、都内のレストランで修行し、2005年に渡伊。モデナの「オステリア・フランチェスカーナ」へ。わずか1ヵ月でスーシェフとなり、当時ミシュラン一つ星だった同店を、2006年に二つ星、2012年に三つ星へ引き上げた。2013年に退職、自身の店を出すべく準備中。
オステリア・フランチェスカーナ / Osteria Francescana
Via Stella 22, 41121 Modena, Italy
☎+39 059 210118
http://www.osteriafrancescana.it/

 イタリアの三つ星レストランの中でももっともレベルが高いといわれ、グルメ雑誌『ガンベロロッソ』で最高の「トレフォルケッテ」(3フォーク)、またサンペレグリノの「ザ・ワールド50 ベスト・レストラン2013」では、世界第3位にも選ばれている「オステリア・フランチェスカーナ」。そこで現在、メニューを考えるところから実際に料理をつくるまで、すべてを手がけるスーシェフを務めているのが徳吉洋二シェフです。三つ子の真ん中として生まれた徳吉シェフは、実家が薬局を経営していたので、兄弟はみな薬剤師志望。もちろん薬学部を目指しますが、家業を継ぎたくないと反発して、受験に行かなかったのだそう。そして「料理の鉄人」を見たことをきっかけに、料理の道に進むことを決め、アルバイトをしながら東京の調理師専門学校に通いました。その後、都内のレストランで働いているときにあるシェフと出会い、イタリアンの世界に興味を持ったのです。

「肉もおろせるし、調理もだいたいできる。『イタリアに行ったほうがいいよ』と言われて、じゃあと思って。お金がかかるから、シェフが友だちのところに泊めさせてやるというので、その人を頼ってイタリアに渡りました。もちろんイタリア語はしゃべれないし、英語も片言ですから大変でしたね」

 10日間ほど泊めてもらう間に働くところを見つけようということで、まずやったのは、イタリアのグルメ雑誌『ガンベロロッソ』を買ってきて、レストランに電話をかけること。イタリア語は話せませんから、電話をするのもその友人。「日本人が仕事を探しているからいらないか?」と、40軒ぐらいにアポを取ってもらったのです。
 まったく知らないところに飛び込み、泊めてもらったうえ、電話までかけてもらう。この遠慮をしないところに、まず驚きます。
 さて、その結果ですが、当然というべきか、すべて断られてしまいました。もうこれは日本に帰るしかないということでミラノの駅まで送ってもらい、さらにお金がなかったので、バスのチケットまで買ってもらったそうです。「また来いよ!」「ありがとう」と挨拶を交わし、いよいよ帰ろうと歩いているとき、売店で『エスプレッソ』という1冊のレストランガイドを見つけました。これが、運命を変えたのです。

「そういえば、この雑誌も有名だと聞いていたけれど、見てないなと思って。そのとき全財産は50ユーロしか持っていなくて、その本がたしか30ユーロくらい。よく買いましたよね(笑)。もし彼がバスのチケット代を出してくれなければ、きっと買わなかったでしょう」

 そこに載っていたランキングで最高得点だったのが、オステリア・フランチェスカーナ。電話をしてみると、「明日から来い」となって、帰りの飛行機のチケットを捨てて、すぐにレストランのあるモデナに向かいました。電話をしてすぐにやってくるのですから、向こうもびっくり。

「シェフのマッシモからは『明日って言ったじゃないか!』と怒られたんですが、『わからない、わからない』と答えて。『じゃあ、ご飯を食べていけ』と言われてごちそうになると、すごくおいしかったんです。

『おまえ何ができるんだ』と聞かれたので、『全部できます!』『じゃあ明日から来い』。それが始まりですね」

 ここまで読んだだけでもわかるとおり、とにかく物怖じしないのが持ち味。もちろん自信はあったのでしょうが、「何でもできます」と言えるのがすばらしいと思います。まさに謙遜は悪、「このぐらいしかできないんですけど……」なんて言っていたら、海外ではいい仕事は回ってこないし、何も任せてもらえないのです。