一線を越えたときに相手の心に響く
最近はわたしの本を読んで映画も見て、今は何もいらない、そばにいさせてほしいと言って『森のイスキア』を訪れる人がほんとうに多い。
さびしい人や悲しい人が多いんですね。
そのときも、わたしはただ「はいはい」と聞いているだけでなく、その人の気持ちを十分に受け入れたいと思っています。
言葉はいりません。自分に対して反応があることが大事なんです。
相手の気持ちをこちらが受け入れられるかどうか、その一線を越えたときに、初めて相手の魂に響きます。
一線を越えるときに必要なのは、相手に対する信頼です。
こちらが信頼すれば、相手もまた信頼しますので、どんな人であっても、わたしは信頼したいと思います。不信であれば不信で始まってしまいますから。
そうやって、そのときは泣いていても、2~3年たって会うと、まったく別人のように変わっていることが多いですね。
今、全国のあちこちで『イスキア』ができていますが、主宰されるほとんどの方がこの『森のイスキア』が原点。
ここから出た人が、活動を広めているのですね。
わたしはすべてに受け入れられています
「初女先生は誰かに受け止めてもらっていますか?」と聞かれたことがありますが、わたしは、すべてのものに受け入れてもらっていると思っています。
物であっても人であっても受け入れてもらっていると感じて生きています。
以前、苦しいときは、神父様に相談していました。
でも今は、すべてのことを正しく見せてくれているのは神様だと思っていますので、神様の返事をじっと待っています。そうすると必ず、お答えが出てくるのです。
ふつうは手を合わせるのが祈りですが、信者になっても毎日の生活があるので、なかなか実践できません。
教会に行きたくても行けなくて悩むんです。でも祈りの中にも、静かに座って祈る“静の祈り”と、実際に動いておもてなしのように見える“動の祈り”があって、その両方の調和がとれたらいいのではないかと思うんです。
祈りというのは誰かのためにすることですから、わたしにとって祈りとは生活そのものです。自分を透明にして祈りながら暮らしていると、神様のお望みであれば、自然に進んでいくのです。