技術力には定評があるものの
これまでは苦闘の連続だった

 スバルは、戦前の航空機メーカーの中島飛行機を前身とし、技術力には定評があった。水平対向エンジン・四輪駆動をその技術力の特徴として「玄人好み」と言われたり、「スバリスト」と呼ばれるスバル車を乗り続けるファンも多かった。それでも、これまでの経緯を振り返ると苦闘の連続だった。

 1990年代末までは、日産自動車との資本提携関係にあり、日産グループとして社長も日産、あるいは興銀(当時のメインバンク)から送り込まれていた。一方で、富士重工業という社名にもあるように、中島飛行機を源流とした自動車以外の航空機事業、産業機器事業、バスボディ事業(その後撤退)など、多角的な経営形態を継続していた。

 自動車事業も水平対向エンジン、四輪駆動の独自技術が売りだったが、軽自動車と小型車分野でシェアは停滞気味で、あくまでも日産グループの一員と言う位置づけだった。それでも米国生産進出にあたっては、いすゞとの合弁生産進出(SIA)という異色の組み合わせを選んだこともあった(その後いすゞが撤退)。

 それが、日産が1999年に仏ルノーの傘下入り、ルノー日産連合として再生スタートしたことを機に状況が一変。当時はまだ世界の「ビッグ1」であった米GMとの資本提携に切り替えたのが、日産出身の田中毅社長(当時)だった。つまり、20世紀から21世紀への移行時における「自動車世界大再編」の渦の中で、GMグループとして生き残りを賭けたのである。GMグループとして、軽自動車分野でスズキとの提携、部品共通化を模索したのも、その流れだった。

 しかし、その頼みのGMがリーマンショックで経営破綻し、米政権の救済を受ける事態に陥りGMとの提携を解消、トヨタとの資本提携へ動いた。結果的にこの十数年間で、スバルの経営はめまぐるしく変遷した。

 また余談だが、歴代の社長はスバルというブランドの浸透を目指し、スバルと富士重工業という社名のギャップを解消しようと、「スバル」への社名変更を常に検討していたという事実もある。しかし、航空宇宙部門も持つ経営体制から変え切れずに今日に至っている。

トヨタと共同開発したスポーツカーBRZ Photo:SUBARU

 いずれにしても、トヨタグループ入り(トヨタ16.48%出資)してからは、米国工場のSIAにおける自車生産に加え、トヨタ車のOEM生産で稼働の安定化が図られ、国内でトヨタとスポーティーカーを共同開発(「BRZ」と「トヨタ86」)し、市場投入する体制へと結びつけた。

 スバルの社風は、中島飛行機の流れを汲んで現社名のように「重いイメージ」があった。技術屋のプライドは高く、かつて日産の言うことも聞かなかったというエピソードを聞かされたほど。一方で、社長が他社から長年送り込まれてきたこともあり、「重厚・おっとり型」でもあった。