通算参拝数1万回の「日本の神さまと上手に暮らす法」の著者・尾道自由大学校長・中村真氏が「神さまのいるライフスタイル」を提案します! 日本の神さまを意識することで、心が整い、毎日が充実する。そして、神社巡りは本来のあなたに出会える素晴らしい旅だと伝えてくれます。
神さまと仲良くなっていくにはどんなことを意識すればよいのでしょうか。神さまと接する上での心のありようを考えてみたいと思います。

信じるのではなく大事にする

 僕は宗教家でも霊能力者でもないので、神さまは見えません。
 それでも、こんなふうに思うのです。「目に見えているものだけが絶対なのかな?」と。
 サン=テグジュペリの『星の王子さま』は、「いちばん大事なものは目に見えない」と言っていますが、僕も同じ意見です。

 たとえば、心を見たことがある人は一人もいません。財布からぱっと一万円札を出すように、「これが心だよ」と人に見せることはできないのです。それでも僕たちにはたしかに心があるし、「お金より心が大切だ」と思う人はたくさんいます。
 もっとわかりやすく言えば、空気は人間の目には映りません。それでも生きていくには空気が必要であり、「見えない空気より目に見える水のほうがずっと大切だ」と言う人はほとんどいません。

人というのは、目に映らないものがなければ、生きていけない存在なのです。こう考えると、僕は「目に見えないものにこそ、大事なものがあるんじゃないか」と感じますし、神さまもそのようなものではないかと思うのです。
神さまも神話も、目に見えず、確かめようがないものです。
 しかし、「信じる・信じない」ではなくて、「大事にする」という考え方のほうが僕にはしっくり来ます。見えないものは見えないままでも、何かを感じるというのは豊かなことです。

見えないものを「感じる」には、意識しなければなりません
 無意識に呼吸しているとき、空気も、自分の身体のなかの肺や血液の働きもまったく感じないものです。しかしひとたび意識すると、驚くほど緻密な作業が行われていることが想像できます。

「空気を吸って、吐いている。口と鼻が息を吸い、それを肺が受け入れる。肺は酸素を血液の中に出して、血液の中にある二酸化炭素と交換して、もういちど息を吐き出している。これを二四時間、三六五日、休みなくやっているから僕は生きている」

 こんなふうに考えると、素直に「すごいなあ」と思うのです。
 科学者であれば、「人体の仕組みはすばらしい」と言うのかもしれません。
 自分が大好きな人であれば「俺ってすごい」と誇らしくなるのかもしれません。
 そして僕は「おかげさまだなあ」と感謝の気持ちを抱いています。
 空気という目に見えないものがあり、科学で完全に解き明かされていない命の仕組みという「見えない何か」が存在している。そんなふうに思えるのです。その気持ちの延長として、見えない何かに感謝したくなります。
僕はたぶん、その見えない「何か」を、神さまだと思っているのでしょう。

 僕らはみな、朝になれば目が覚めるのは当たり前だと思っていますが、たとえ若くて健康体でも、夜眠るときに「明日、目覚める」という保証はひとつもないのです。夜のうちに呼吸が止まることも、心臓が動かなくなることもあります。夜中に火事が起こることもあるし、強盗が来るかもしれない。脳みそが死んでしまうこともあるでしょう。
 神さまを意識すると、そうならないように一晩中動きつづけてくれた自分の体と見えない何かに対して、「ありがたいな」という気持ちが自然に湧いてきます。
「今朝も起きられてよかったな」、そんな気持ちを込めて言う「おはよう」は、我ながらすがすがしい挨拶です。

 もちろん、忙しいときや、予定が詰まっているのに寝坊したときには、「もう朝かよ」「やばい、朝食抜きで出かけなきゃ」となり、感謝などできません。そういう日には数秒だけ時間をとって、「朝、目が覚めた。ありがたいな」とあえて意識することにしています。
多少わざとらしくてもこれを繰り返していき、感謝の習慣がついてくると、「普通でいられることの幸せ」を味わえるようになってきます

 目覚めるしあわせ、太陽があるしあわせ。
 ごはんを食べられるしあわせ、食べたものをすこやかに消化できるしあわせ。
 平凡に終わった一日も、「今日もなにごともなく穏やかに過ごせた」としあわせを感じることができます。トラブル続きでわりに辛い一日であっても、「まあ、息が止まったわけじゃない。とりあえずは生きていられてありがたい」としあわせを味わえます。

 恋をしたり仕事で大成功したりという「心がふるえるようなしあわせ」が、お寿司やステーキのような特別なごちそうだとしたら、「今日を普通に生きるしあわせ」は、毎日のお米やパンです。
いつも食べるものがおいしいなら、人生はそう悪くない。そんな気がします。

◆今回の気付き
「普通の毎日」を過ごせる奇跡

人はみな、自然の分身

「一粒のお米にも神さまがいる」
 日本人ならどこかで聞いたことがある言葉でしょう。
 おばあちゃんが孫娘に語り継ぐ『トイレの神様』という歌がヒットしましたが、トイレにいるのは、仏教から生まれ、神道にも取り入れられた〈弁財天〉という神さま。かまどには〈荒神〉という土着の神さまがいますから、『キッチンの神様』という歌があっていいかもしれません。

 キリストは教会に、釈迦は寺院にいますが、日本の神さまは神社だけではなく、ありとあらゆるところにいます。八百万の神がいるといわれるくらいで、神さまがいないところを見つけるほうが難しいでしょう。そもそも、神さまと人の距離がものすごく近い。それが僕たちの国のありかたです。

『古事記』に登場する伊邪那岐と伊邪那美という二人の神さまは、淡路島を第一子として末っ子の本州まで日本列島を生んでいきます。夫婦仲はかなり良かったらしく、二人はほかの日本の島々を生んだあと、海の神、港の神、風の神、野の神、木の神、山の神を生みます。
 処女懐胎してひとりっ子のイエスを生んだマリアさまと比べると、なんとも子だくさんのビッグファミリー。イスラム教は一神教ですし、独身のイエスや、結婚したものの息子がひとりだけという仏陀に比べるとそうとうな数の子どもが生まれ、何人かは神さまになっています。そもそも日本にはこの二人以外にも、神さまがたくさんいます。
『古事記』はとても面白くて興味が尽きないのですが、僕がここで注目したいのは、「日本列島と神さまは、きょうだい」ということ。日本人と神さまの距離が近いのは、昔ながらの神と人との定義づけにあるのかもしれません。
『古事記』は古代日本の各地で口承されていた自然崇拝をまとめたものと考えられているので、『古事記』ができるずっと前から、日本人はあらゆるところに神さまを見いだしていたのでしょう。

 ところが今、多くの日本人は「自分は無宗教だ」と思っています。「宗教は怖い。事件や紛争のもとだ」と恐れたりもしています。
 しかし宗教とはまったく別に、自然を神さまのように大切にしながら、神さまを身近なものとしてとらえる心は、現代にも生きていると思うのです。
 たとえば、宮崎駿監督が制作するアニメーション。多くの人が心うごかされる理由は、ストーリーのすばらしさ、絵の見事さだけが理由ではないはずです。僕たちの心の底に眠っている自然崇拝がそこにあるから深く感動するし、日本のみならず世界で高く評価されているのも、人間がもつ根源的な自然への思いが作品に息づいているからではないでしょうか。

 自然崇拝は日本だけのものではありません。アメリカのネイティブアメリカン、南米のインディオ、アイルランドやスコットランドのケルト民族、オーストラリアのアボリジニ、砂漠の遊牧民ベドウィン、日本のアイヌ民族など、みんな自然崇拝をもっていました。

 その多くはキリスト教やイスラム教、仏教といった圧倒的なパワーをもつ宗教におしやられてしまいましたが、日本は自然崇拝を残したまま近代化をはたした数少ない国だと思います。特に仏教を受け入れつつ神道もしっかり息づき、それらを信じていない人たちも漠然と“神さま”を意識できるというのは、曖昧さではなく多様さを受け入れる豊かさだと感じるのです。

何を神さまと思うかは、何を大切にするかというその人の価値観を映し出しています。日本人が自然崇拝をしているのなら、自然こそ日本人の神さまであり、自然こそ日本人の価値観と言えます。
「それなのに人間は自然を破壊している。自然を守らなければいけない」という意見がありますが、人間もまた自然の一部にすぎません。人間は、自然につくられたたくさんの動物や植物のうちの一種類であり、どのようにつくられ、どのように命が動いているのかは、これほど科学が発達しても、いまだすべては解明されていません。

 僕たちが当たり前に使う「自分」という言葉は、「ご先祖さまが『自ずを分け』て、自分の分身をつくっていったからだ」と言う人がいます。
 いっぽう、「人間は自然の分身だから、『自分』なのだ」という考え方もあり、僕はこちらのほうがしっくりきます。

 人間は自然を神さまとして崇めてきましたが、人間もまた、自然の分身。
そう考えると、やっぱり神さまとは、人間一人ひとりの心の中にいるのかもしれません。

 次回は、日本の神さまを象徴している神話の世界に迫っていきたいと思います。

◆今回の気付き 
人も自然の一部だということに気づく