自己実現から自己超越への展開は、苦しみによってもたらされる懺悔の心だと第21回で述べました。これこそが「人生の秘密」であると。そして、最終回のメッセージである「宇宙の秘密」とは、人間は恩寵あふれる真実の世界に住んでいるのに、これに気づかず、あろうことか修羅・畜生・餓鬼・地獄の世界を生きているということです。

 そんなお伽話をして何が嬉しいんだと読者は思われるでしょうが、ここが人間学の要点のような気がします。人間学の要点は、「宇宙の秘密」に気づくことによって、ここを起点として自らの来し方を受け止め直し、行く末を自身が納得できる生き方として展開し――自己超越――、そこに人生の意味が形づくられて行く、このことに尽きるからです。

【宇宙の秘密1 救済の構造】
 さて、ならば、「宇宙の秘密」への気づきはどこから来るのでしょうか。

 ここから次の文章へは大きな飛躍があります。自己の壁を破る経験は実存的な体験で、本当は普遍性を有する客観的真理として述べたいのですが、自分の経験を告白するという枠組みの中でしか説明できません。客観性の装いはすべて剥ぎ取られるのです。そのようなものとしてお読みください。

 自分の限界だらけの探求の結果なのですが、私の知る限りでは、それはイエスの言葉と死に様から来ます。もうひとつ急いで付け加えれば、時代や環境、宗教や文化を問わぬ、「信」によって人生の苦難を乗り越えた多くの証言に、「信」の大切さを見出して勇気づけられるという経験もありました。

 いずれにしても、最大の証言者はイエスであり、イエス・キリストの中に宇宙に満ちみちた無限の愛情があって、その短い生涯と死に様と復活の奇跡にその糸口があります。それは一言で贖罪愛、赦しの愛の啓示で、イエスはそれを目に見える形で示した――「啓示」の意味――のです。ここから無限の恩寵あふれる真実を人間は汲むことが出来るのです。ここが真にわかれば人間は手放しの自由の境涯に至れるのです。

 言い換えれば、「宇宙の秘密」とは見えざる宇宙の、見えざる本質――同時にそれが神の本質でありキリストの本質なのです――ですが、それは端的に赦しの愛、贖罪愛であって、これを体得した者が救われると聖書は示します。「あなたの信仰があなたを救ったのです」(マルコによる福音書10-52)。

 さて、イエスに不思議な言葉があります。「私と父とはひとつです」(ヨハネによる福音書10-30)。意味するところは、贖罪の死を遂げるイエスの心はそのまま神の心だということです。「私を見たものは父を見たのです」(同14-9)。

 ここで神が仕組んだ救済の働きが人間内部に起こります。すなわち、イエスが贖罪の死を遂げたということは――イエスが死んだのではなく(もちろん、イエスは死んだのですが)――その本質的な意味合いとしては、神が死んだのだと転換するのです。

 そして、このことに思い至ったとき、大きな「気づき」が生まれるのです。宇宙の赦しの愛、贖罪愛とは神自身がわが救済のために死を味わったのだと。この衝撃! ここで宇宙への信頼回復が始まるのです。

 常識でもそうですが、愛情と信頼とは裏表で、お互いに愛情があれば当然、信頼があります。宇宙への愛はまず先に、宇宙がわが救済のために死を味わったと知ったときに回復されるのです。回復された愛情は信頼へと転換します。ここに「信」の根拠が据えられているのです。

「宇宙の秘密」とはこのことです。宇宙の心はこのような形でしか人間には伝えきれなかった。これが「宇宙の秘密」です。

  悪人が
  宇宙ひとつと
  代わりたり

【宇宙の秘密2 愛の実践】
 もう一歩を進めます。人間の探求の根本的な誤りは、愛が存在しない場所でこれを捜し求めて来たことです。だからわからないのです。砂漠の中で水を求め、「木に倚りて魚を求む」の愚を繰り返し、教えてくれる人がいなかったとはいえ、哀れすぎる勘違いです。

 自己超越の世界は、人間の力を超えたぎりぎりのところで、「信」に助けられて愛を行うところに広がってゆくもののようです。愛は行わなければわからない。

 確かに、このような形での愛の実践以外に宇宙の本質を知る方法はない。これは決定的な、しかし、知恵ある宇宙のルールです。これによって、「似非(えせ)」と「嘘」は自動的に排除されるからです。自己超越の世界のいわばろ過装置です。

【宇宙の秘密3 生き方の決断】
 さて、ここでやっと究極の言葉に辿り着きます。それは信仰の核心、宗教の核心は、逆説的ですが、「生き方の決断」であるということです。それですべてを言い尽くしています。

 要するに、知は虚構の世界、それに対置される心は実体の世界と言いながら、禅宗二祖慧可の伝承にあるように「心不可得」なのです。知と言っても心と言っても、蜃気楼のように追えば逃げる、捉え処のないものです。これを追って、生涯を浪費するのは愚かの極みです。

 他方で、「生き方の決断」は人間の手の内にあって、同時に宗教の奥義と直結しています。神に向かう知と心は、社会的関係として捉えられるときに、いわば無精卵から有精卵になるのです。

「生き方の決断」によって天地が直結する(注1)。そこを使徒パウロは「いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放した」(ローマ人への手紙8-2)と受け止め、イエスは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネによる福音書14-6)とと宣言し、「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(同16-33)と激励したのです。それは知だけでも心の領域だけでもない、この世における「生き方の決断」という意志の行為、人間の選択、これを貫く人生の価値の社会的宣言なのです。

 付言すれば、生き方の決断はそのまま懺悔の道でもあります。キリストの十字架と復活の道は、ろくでなしの人間が生きていけるように、人間を背負って行った犠牲の道で、これに従うという生き方の決断はそのまま懺悔と感謝、報恩の道でもあります。

 結論です。本稿で取り組んできた自己超越とは、宇宙そのものの巨大な愛によって自己の限界状況――罪――を突破することで、その道筋は宇宙創世の古(いにしえ)から、何の隠し立てもなく世界にさらされて来ました。見えざる宇宙の贖罪愛は心の目で見ることができ、「信」によって受け取ることが出来たからです。

 そして、ここに至れない人間のために二千年前にイエスは自らの短い生涯と死と復活によってこれを啓示してくれました。この深い「真理」――人間精神の把握可能な内面的、宇宙的な事実――が既に確立されているのに、人間はこれを知ることができない。

 だからこそ、これこそが公然たる「宇宙の秘密」だと言わざるを得ないのです。

  破れ案山子(かかし)
  辿り着いたか
  終(つい)の地に

  積み崩す
  賽の河原の
  迷いの子(注2)

  秋深し
  「みな任せよ」と
  のたまえり(注3)
 

(注)
1.第19回の注3「イエスの贖罪の8面体」を念頭に置いてお読みいただきたいのですが、「信仰によって救われる」というキリスト教の救済の宣言は、この信仰という言葉のやみくもな適用が誤解を生み、人間を誤らせたと思われます。

 すべては神の側の措置で、人間にはこれに加える何物もないとは言うものの、人間の側の応答は必須です。そうでなければ、宗教の存在自体が意味のないことになります。その応答を「信仰」と要約表現したのですが、注で述べたように様々な応答の仕方があるのです。そして、その8面体の中で最も本質的な応答は「キリストを見つめての、この世における生き方、生き筋の決断」で、そう見極めればすっきりとするし、それこそが信仰という言葉の核心だと私は思うのです。

 もちろん、読者はおわかりでしょうが、宗教には人間理解の届かないことが多いし、人間の力量を超えた部分は神の善意を信じて「任せる」「ゆだねる」という局面も多々あって、信仰という言葉が多用されるのですが、しかし、その核心は「生き方の決断」なのです。ここで天地が直結し、ここに知と心のあらゆる要素がすべて集約されてゆく。この決断を基に救済と赦しが実現してゆくのであろうと思っています。

2.まさにそのとおりで、知と心と決断、これが人間の側のすべてです。そして、そのレベルは人間の数だけの無限段階がありますが、何を、どうしても人間は迷い、揺れ動くのです。揺れ動くのが人間なのです。ゲーテ『ファウスト』の一節、「人は、努力する限り、迷うものである」の言葉通りです。

 その時に、人生の舵を神に向け続けさせるのが信仰なのです。信仰は自己超越の世界から来るもので、したがって、揺れ動く人間の中にあって、この信仰だけは再生し、復活し、永続する、すなわち動かないのです。そして、「あなたの信仰があなたを救った」(マルコによる福音書10-52)というキリストの言葉が成就するのです。

 ということは、人間の本性たる探求は、信仰を併行させることによって本来の姿で機能するということです。

3.読者はお気づきだろうと思いますが、「自己超越の人間学」は頭から心へ、心から姿勢へと転換していきました。真理を遠目に見ていたり、か細い一本の糸で真理とつながっているのではなく、真理をたぐり寄せて自分のうちに実現しなければならない。そして、その黙し難い要請とそこから来る緊張は、信じて、耐えて、待つという姿勢に人間を導きます。この姿勢、この態度こそ「自己超越の人間学」の要点です。これは、解脱しながら修行を続ける、救われながら信仰を継続するという仏教やキリスト教のあり方の私流の受け止め方です。この「見切り」に達することによって、やっと、愚かなるわが生涯の重荷が降ろせそうな気がします。本連載は、これで終わります。ありがとうございました。