慰謝料交渉のリアル
久美さんは、スマートフォンを出して、なにやら計算し始めました。そして、おもむろに片手を上げました。
「先生、慰謝料、500万円でどうでしょう?」
「いいと思いますよ」
「私たち、ざっくり2000万円の貯金があるんです。それを分けるとして1000万円ずつですよね。その半額だったら、多分、ダンナも出せるんじゃないかと思います。で、私そのお金で、一度ボストンでも行ってきます」
「それはいいですね」
「さゆりもそれなりに稼いでるはずなんで。うん、大丈夫な気がする。500万円で夫に提示してみようと思います」
「ちなみに、久美さん」
「はい」
「慰謝料交渉って、バナナのたたき売りみたいなところがあるので、普通は最初から希望金額は言わないものなんですよね」
「500万円ほしければ、700万円からスタートするとか?」
「うーん、1000万円スタートでもいいかもしれませんね」
「え! 2倍でふっかけるって、アジアの路上マーケット並みじゃないですか!」
「相手が少しでも少なくと考えている場合は、最初、そのあたりからスタートすることが多いです」
「そうですか。うーん、それは……ちょっと考えてみます。うちのダンナ、駆け引きをするタイプじゃないと思うんです。駆け引きをするタイプだったら、最初からバカ正直にさゆりのことを話してこないと思いますし」
「それはたしかにそうですね」
「1000万円というと、私が復讐のためにその金額を提示しているように見える気がするんです。そう思われるのは嫌だし……」
「はい、それはもう、久美さんの考えで決めていいと思いますよ」
「家に帰って、もう1回考えてみます」
久美さんの、「復讐のために慰謝料を請求していると思われたくない」という言葉を聞いて、この離婚はおそらく双方にとって納得のいくところに着地するのではないかと感じました。たった2時間前のことなのに、「地獄に落ちればいい」と言っていた12時の久美さんと、「復讐のために請求するわけじゃない」と言っている14時の久美さんは、まるで別人です。
でも、このようなことは離婚相談を受けていると、実はよくあることです。まずは一度、毒を吐き出し、そして「相手」ではなく、「自分」はどうしたいかと考えることができるようになること。こんがらがった気持ちをほどくことができれば、ドロ沼離婚を回避できる可能性はぐんと高まります。
重要なのは、気持ちの整理を後回しにしないことです。気持ちの整理さえできていれば、久美さんのように、交渉ごとも明快になっていきます。
「先生、今日は本当にありがとうございました。私、本当に今日、先生のところに来て良かったです」
「いえいえ、そう言ってもらえると私も嬉しいです。これからも、もし何か困ったことがあったら、連絡くださいね」
「はい、そうします」
久美さんの背中を見送りながら、「多分、もう連絡はこないだろうな」と思いました。おそらく、久美さんとご主人は、お互いの話し合いで離婚を成立させるだろうという予感があったからです。