人間は「好きなこと」だけ努力すればいい
林 今、一緒にロボットをつくっているメンバーの中に、すごく優秀な高専生がいるんです。彼は微分ができなくて、それが原因で落第しそうだというんですね。それくらい微分ができないのに、積分はできるというんです。「なんで?」って聞いたら、「積分はロボットをつくるのに必要だから」と。彼は、学校というシステムのなかでは“落第”しそうですが、ぼくはこれこそ、学習のあるべき姿ではないかと考えているんです。必要なときに必要な部分を勉強すればいいのであって。「微分の存在は知っているけど、微分のやり方は知らない」。必要ないならばそれでいいんです。
中野 なるほど。確かに、イタリアに行かないなら、イタリア語は読み書きできなくてもいいですもんね。
林 そうなんですよ。使わないものを一生懸命習得する努力よりも、たとえばその人が地理が好きなのであれば、地理を歴史に紐づいて学ばせるほうがよっぽど得るものがあって、有益なわけですね。興味をベースにした学習は、パフォーマンスを最大化させると思うんです。
中野 その通りですよね。「義務感を伴う努力」という領域はもう人工知能にお任せして、人間は「興味をベースにした努力」をする。「好きなこと」だけ努力するほうが、人間としての可能性は広がると考えています。
林 『努力不要論』で中野さんがおっしゃっているのは、「努力をしても何も得られませんよ」ということではなくて、「その努力で得たものは、あなたが本当に目標としていたものですか?」ということですよね。「本当に得たいものを最短距離で得るための努力をしましょう」と。
中野 そうなんです。たしかに、目的意識をもたないがむしゃらな努力によっても得るものはあります。それは「達成感」や「満足感」だったり、「あなたは頑張りましたね。努力家ですね」という周りからの評価だったり。確かにこのような報酬でも、人間は努力し続けることができます。でも人間の歴史は、この「がむしゃらな努力を続けられる習性」を利用する誰かによって搾取され続けてきた歴史なんですよね。そのことに警告を発したくて、私は『努力不要論』という本を書いたんです。
もちろん、努力することによって「努力した満足」を得ること自体を私は否定しません。ですが、本当は苦しいのに、みんなに「素晴らしいね」と言われながら我慢して搾取され続ける人のことを私は放っておけません。本当に得たいものは何かを考えて、そのためにまっすぐ努力すべきです。
「やりたいこと」が見つからないのはなぜ?
林 ただ、1つ気になることもあるんです。「好きなことだけ努力すればいい」というのは、いろいろな起業家の方もテレビや書籍、雑誌などのメディアでおっしゃっています。それでも「搾取されるような努力」がなくならない要因の1つに、「やりたいことが見つからない」ということがあるのではないでしょうか?
中野 確かにそうかもしれませんね。非常に大きな問題ですね。
林 『努力不要論』の中で中野さんも触れられているように、昔は生きるだけで必死だったのに対して、今は満たされすぎていて、いろいろなパフォーマンスが落ちていたり、こだわりが落ちていたり、好きなものが見つからなかったりという影響が出ているのかもしれないですね。そう考えると、今の時代に「やりたいことを見つける」というのは、ある意味いちばん高度なことなのかもしれません。
中野 そこは私自身も悩むところです。というのも「やりたいことが見つからない」のは、必ずしもマイナスかどうかもわからないからなんです。
合理的に「こうすれば幸せな人生を歩める」という明確な道程が見つかってしまうと、残りの人生は全部、消化試合になるんですよね。消化試合を何十年も続けるというのは苦しいものです。やりたいことを見つけて、合理的に生きるのもまた地獄だと思うんです。
林 う~ん、たしかに……。結局、「人間はどうしたら満足し続けられるのか」という話ですよね。人間にとっては、「収入が多くて安定していること」すら必ずしも幸せではない。完全に満たされた環境にいると、いつの間にかそれに飽きてしまうというのも、人間の不思議な面ですよね。
中野 本当に人間は、なんと悩ましい生き物なのでしょう(笑)。わざわざ苦しもうとする。「業」としか言いようがない(笑)。
林 そもそも「やりたいことを見つける」って、ほかの動物がやったことのない仕事なんですよね。動物の中で、人間が初めて直面しているのが「やりたいことを見つける問題」なんです。よく年配の方が「最近の若い者はやりたいこともないのか」って偉そうにいいますけど、これはものすごく高度な問題ですから、見つからないのも無理はないと思うんですよ。
中野 やりたいことがないほうが、実は生物としては進化しているということなのかもしれませんしね。