衆院選の投票日がいよいよ明日に迫った。政治家の演説や報道番組ではよく「選挙で民意を問う」という発言が聞こえてくるが、そもそも「民意」とは何だろうか? 多数決や選挙といった「決め方」の意味を経済学的に鮮やかに解説した名著『「決め方」の経済学――「みんなの意見のまとめ方」を科学する』の著者である坂井豊貴氏は「選挙結果は民意とは言えない」と断言する。2016年刊の同書より、ぜひいまこそ読んでほしい一節を紹介する。
(『「決め方」の経済学』から一部を特別に公開しています。 初出:2016年7月8日)
大阪都構想の住民投票から
何が読み取れるか?
2015年5月17日に大阪市で、大阪市を廃止して代わりに5つの特別区を設置するという「大阪都構想」への住民投票が行われた。結果は、反対が50.4%で賛成が49.6%。僅差の反対多数で否決となった。
大阪都構想を推し進めてきた橋下徹市長は、この結果を自身の敗北ととらえ、政治家からの引退を表明した。
僅差の否決を見て、賛成した約70万人の声も尊重せよとの声もあった。確かにほとんど賛否同率だから、そう言いたくなる気持ちはわかる。でも、そもそも尊重せよとは、何を尊重せよということなのだろう。尊重の対象があいまいだ。
注意が必要なのは、投票結果が含む情報量だ。情報量が多いなら尊重の対象はわかりやすい。でも少ないならば、尊重せよと言われても、何をかという話になる。反対が50.4%、賛成が49.6%という投票結果があるのはわかる。でもこの数字がいったい何を意味しているのかはよくわからない。
データと解釈は別のことがらだ。スカスカなデータを見て、何かを無理やり読み取ろうとしないほうがいい。人間は自分が見たいものを見つけたがるのだから。
何を問われたか、を問わねばならない。例えば食事のとき、飲み物として、水かウォッカのどちらを選ぶか問うのは、親切ではないだろう。ジュースやお茶が欲しい人は、やむなく一方を選ばされることになる。
住民に与えられているのは
イエスかノーかの選択肢だけ
大阪都構想は、大阪市をなくして5つの特別区に分けるという、かなり劇的な変更案だった。有権者に与えられた選択肢は、その案へのイエスかノーだ。
でもイエスに投票した有権者も、そこまで極端な案を求めている人ばかりではないだろう。ノーに投票した有権者も、現状でよいと思っている人ばかりではないはずだ。イエスとノーのあいだにも、濃淡のグラデーションがある。
住民投票はそのグラデーションを白黒半分ずつ染め上げた。結果からもとのグラデーションはわからない。70万人の賛成票から読み取れるのは、せいぜい「現状をよいとは思っていない」程度のことだ。彼らが実際に何を求めているかについては、勝手な憶測しかできない。
提案する側の力は強い。なんせ問う案は潜在的にはたくさんありえるのだ。大阪都構想についていえば、自民党県連の提案や、橋下氏が住民投票の否決後に持ち出した「総合区構想」など、ほかにも案はあった。
橋下氏は「最終的には住民が決める」と言っていたけれど、住民が与えられている役割は、せいぜい最後にスイッチを押す程度のものだ。スイッチを押さない選択はできるけれど、別のスイッチを押す選択はできない。
住民投票は
提案者が圧倒的に強い
それに、提案する人が、必ずしも親切だとは限らない。自分に都合のよい案を、「これが皆さまに最適な案です。さあ住民投票で認めてください」とやっているのかもしれない。
これはとても怖いことで、有権者の51%がその案を「まあいいか」と認めたら、強い民主的威信が与えられてしまう。でも別の案のなかには、有権者の90%が高く満足できるものがあったかもしれない。
多数決だと51%の有権者を押さえれば勝てる。だから提案する人は、「51%以上の支持を受けそうなさまざまな案」のなかで、自分に一番都合のよい案を持ちだすかもしれない。例えば政敵に一番大きなダメージを与えられる案のように。
大阪都構想の住民投票には、橋下氏が仕掛けた政争の面が確実にあった。橋下氏は大阪市議会では、自分の党以外の議員とは対立していた。大阪市役所との関係もよいものではなかった。住民投票で勝っていたら、それらの敵に大きなダメージを与えられた。
実際、住民投票後の会見で橋下氏は「戦を仕掛けて、叩き潰すと言ったら叩き潰された」のように発言している。これでは政策ではなく政争の総括だ。