野水勉校長
開成学園の校章「ペンと剣」の深紅の校旗と野水勉校長
野水勉 開成中学校・高等学校校長

野水勉(のみず・つとむ) 開成中学校・高等学校校長

1954年福岡県生まれ。開成中学校・高等学校、東京大学工学部、同工学系研究科工業化学専攻修士課程を修了。79年動力炉・核燃料開発事業団研究員、84年名古屋大学工学部の助手となり、89年金属工学専攻で工学博士号を取得。90~91年にハーバード大学医学部客員研究員。92年名古屋大学工学研究科材料機能工学専攻の講師、96年に同大学留学生センター・短期留学部門教授に就任。同大学国際学術コンソーシアム推進室長、総長補佐(国際交流・留学生交流担当)、国際交流推進本部・国際企画室長、国際教育交流センター・教育交流部門・部門長から副センター長を歴任。2020年3月名古屋大学を定年退職し、同年4月より現職。

50年ぶりに帰ってきた母校

森上展安・森上教育研究所代表
[聞き手]森上展安・森上教育研究所代表

 野水勉校長が初めて開成学園の門をくぐったのは1967年4月のことである。ベトナム戦争の激化で全共闘運動が高揚し、69年1月には東京大学安田講堂が占拠されるなど、世情は混とんとしていた。 

――先生が通われていた頃の開成はどのような感じでしたか。

野水 私が中学に入る頃は、都立高校の学校群制度で大騒ぎしていた時期でした。同じく「私立男子校御三家」と言われても、麻布が開成の先に来る感じで、私の代が卒業した頃の東京大学合格者数は年に60~70人と全国10番目くらい。それほどトップを走っているという印象はありませんでした。その後、東大合格者数日本一を39年間維持していますが、私がいた頃の開成のイメージとはだいぶ違います。

 私自身も千葉県から通っていて、下町出身者が多かったこともあり、“山の手の麻布”に対して“下町の開成”というイメージ。丸刈り頭だったし、バンカラな感じですね。校内の女性は養護の先生だけでした。

 それが校長になって来てみたら、女性の先生が10人近くもいらっしゃる。さらに英語の先生たちがすごく良い発音で教えていて(笑)。ネイティブ(英語が母語)の先生も専任2人、ほとんど専任並みのコマ数の非常勤の先生が5人もいます。私たちの頃には女性の先生やネイティブの先生は一人もいませんでした。

――いまの先生方は皆さんドクター(博士号)や修士号をお持ちなのでしょうか。

野水 必ずしもそうではないですが、昔も先生方はとても熱心で優秀でしたが、50年前と比べるとレベルがさらに上がっています。

 高校時代の校舎は、大正時代に建てられた暖房もない質素な建物でした。関東大震災で現在地に移転してきたときに造られた建物です。私が高校生になった頃、創立100周年記念で体育館が造られました。ちょうどいま、150周年記念事業で新しい高校の校舎を建築中の場所にありました。

――開成といえば質実剛健な教室ですが、新校舎にはどのような特徴がありますか。

野水 いままでは場所も限られていた課外活動や部活動などをもっと行えるようなフリースペースをたくさん取れるようにしています。また、1クラス50人いる高校の教室をもう少し広くします。いまの高校校舎は、どちらかというと機能性を最大限重視して造られていますが、もう少し見栄えも良くなっているのではないかと思います。あとは、グラウンドや中学校舎とのアクセスを良くする工夫もなされています。

――開成さんの場合は、音楽でギターとピアノを3年間やられますよね。 

野水 演奏は体育館でも出来ますし、座席が階段状になった小ホールも新たにできます。