
後藤謙次
政治家同士の思惑がこれほど激しく交錯した葬儀は珍しかった。8月29日午後、東京・芝公園の東京プリンスホテルで営まれた、「参院のドン」と呼ばれた元自民党参院議員会長、青木幹雄の「お別れの会」のことだ。この日のハイライトは友人代表としてマイクに向かった森だった。

東京電力福島第一原発の「処理水」の海洋放出を巡って中国が激しく反発し、外交問題になりつつある。中国の反発はある程度は想定されたが、「これほど強く出てくるとは思わなかった」というのが日本側の受け止めだった。しかし、日本政府は今も強気だ。「中国には二つの誤算があったのではないか」と日本政府関係者は指摘する。

2021年10月、首相に就任した岸田文雄は福島県の東京電力福島第1原発を訪れ、保管中の大量の処理水について海洋放出を急ぐ意向を強調した。それから1年10カ月。岸田は最後の断を下した。政府の説明が「不十分」なまま、処理水の放出は8月24日に実施することになった。

元首相の安倍晋三が凶弾に倒れてから1年以上にわたり会長不在で混迷を続けている自民党安倍派の後継体制の輪郭がようやく見えてきた。派内に「常任幹事会」を新設し、安倍派会長代理で元文部科学相の塩谷立をその座長とする集団指導体制を導入する案だ。ただし、派内には不満、反発が根強く存在する。

夏枯れが続く政治ニュースの中で気を吐くのが日本維新の会だ。7月30日に投開票された仙台市議選で新人5人が全員当選した。投票日前日の29日には酷暑の中で街頭に立つ代表の馬場伸幸の姿があった。維新はどうしても大阪を中心にした「ローカル政党」のイメージが付きまとう。馬場はそこから脱して「全国政党」への飛躍を掲げる。

酷暑が続き、政界も夏休みかと思いきや、首相の岸田文雄がにわかに内閣改造・党役員人事に向けて動きだした。従来のスケジュール感では「9月中旬人事」。それが前倒しされて「8月下旬人事説」が急浮上した。

岸田内閣の支持率は5月に開催されたG7広島サミットを境にピークアウトしたことが明確になった。大雨による洪水被害や新型コロナウイルス感染者数の増加、国民生活に打撃を与える物価高など、諸問題に対する政治の動きが見えてこない。衆議院解散を見送った岸田の求心力の衰えは否定できない。

7月8日の安倍の一周忌を経て、安倍派の混乱ぶりは一層鮮明になってきた。もともと安倍が明確な後継者を育ててこなかったことが混迷の原点だった。元首相の安倍晋三を失い、会長不在のまま混迷が続く最大派閥の安倍派を巡る状況は、過去の自民党分裂劇と通じるところがある。

政界最大の実力者だった安倍晋三(享年67)が凶弾に倒れてから1年の時が流れたが、安倍が抜けた穴を政界全体が今も埋められずにいる。最大の要因は、所属議員が100人を超える自民党最大派閥の安倍派(清和政策研究会)が会長すら決めることができないまま、一周忌を迎えたことにある。

G7広島サミットで上昇した岸田文雄内閣の支持率は約1カ月で消失した。下落の原因は明確で、政府が導入を急ぐマイナンバーカードを巡るトラブルに対する拭い難い不信感に起因する。加えて各社の世論調査が示す新たな政治の潮流が解散時期の判断を難しくしている。

岸田はこの国会で解散権という「伝家の宝刀」の柄に手を掛けようとしたことは間違いない。しかし、結果として「宝刀」は抜かずに鞘に収まったままだ。自民党長老の一人は「もったいないことをした」と語るが、早くも秋の臨時国会での解散説が浮上する。

参院議員引退から13年を経て、なお政界に隠然たる影響力を保持していた元官房長官の青木幹雄が6月11日午後8時35分、川崎市内の病院で死去した。衆院選挙の有無にかかわらず、夏には内閣改造と党役員人事が行われる。「青木の死」が岸田の人事構想にどこまで影響を与えるのか。

首相の岸田文雄は長男で首相秘書官の翔太郎を更迭した。その狙いについて岸田に近い政権幹部は「解散権の制約を解除することにあった」と語る。翔太郎の問題に重なるように自民・公明の対立が表面化したことについて、立憲民主党幹部は、解散阻止が目的とみている。

5月21日午後、サミットで議長を務めた首相の岸田文雄は広島の平和記念公園で記者会見に臨んだ。岸田の発言には力がこもり、それは地元で開いたサミットを終えた自信の反映にも見えた。ウクライナの大統領ゼレンスキーの出席もあったサミットを終え、東京に戻った岸田自身は達成感に浸ったようだ。

首相の岸田文雄の「顔」が話題になっている。5月19日からの先進国首脳会議(G7広島サミット)を前に発売された米誌「タイム」の表紙のことだ。やや上目遣いで眼光鋭い表情は温厚、穏健なこれまでの岸田のイメージとは全く違う印象を与える。確かに最近の岸田は体全体から自信がみなぎる。広島サミットを通じて岸田は「世界の顔」になったといっていい。しかし、サミットを乗り越えた岸田は何をもって求心力を高めることができるのか。

先進7カ国首脳会議(G7広島サミット)の開催が5月19日に迫る。主役は地元が広島の首相、岸田文雄だ。サミットまであと2カ月となった3月中旬以降は、怒濤の勢いで岸田外交を展開した。皮切りは3月16日の日韓首脳会談だった。来日した韓国大統領の尹錫悦との間で懸案の元徴用工問題に前進が見られ、劇的に日韓関係は改善に向かったが、自民党内保守派の圧力は尋常ではなかったようだ。

4月23日に投開票された衆参両院の5補選の結果は、首相の岸田文雄が繰り返していた勝敗ラインを越えて「4勝1敗」。数字を見れば上出来といえたが、選挙戦の内実はお寒い限りだった。選挙を重ねるごとに強さを見せつける日本維新の会は、追い風を背に次の衆院選で強気の方針明らかにした。

首相の岸田文雄が衆院和歌山1区の補欠選挙の応援遊説中に鉄パイプ爆弾の標的になった。この日は和歌山に続いて衆院千葉5区の補選の応援にも入る予定が組まれ、その遊説をどうするかの判断を迫られた。「暴力に屈するわけにはいかないのでこのまま遊説を続けます」と、岸田は予定通り、JR和歌山駅前で待機していた選挙カーの上に立った。事件は「岸田政権にとってプラスになった」との見方がある一方で、厳しい分析も存在した。

日韓外交に続いて日中外交が動きだした。外相の林芳正が北京を訪れ、4月2日に中国外相の秦剛と約3年ぶりの外相会談を行った。それだけでなく、林は中国国家主席、習近平の側近で首相に就任したばかりの李強、さらに中国外交のトップである王毅とも立て続けに会談を重ねた。北京ウオッチャーも「破格の厚遇」と評した。しかし中国がいきなり対日姿勢を変えるはずはない。

3月9日、89歳で死去した扇千景は女性で初めての参議院議長。その議会運営は与野党に偏ることなく公平無私を貫いた。扇の前には旧社会党の委員長から女性として初めて衆議院議長になった土井たか子(2014年85歳で死去)がいた。二人の女性は平成の時代に入って政治が激しく揺れ動いた乱世に議長となり、その才を発揮したが、その後は政治全体を大きく動かす女性国会議員は登場していない。
