首相の岸田文雄は7月10日をもって在職日数が645日となり、「政治の師」とも言える同じ宏池会(現岸田派)出身の元首相、宮澤喜一を抜いた。
ただし、ちょうど30年前の宮澤の退陣はそれまでの首相退陣劇とは全く様相を異にするものだった。自民党一党支配の終焉(しゅうえん)でもあったからだ。その引き金となったのは、選挙制度改革を巡って自民党が分裂したことだ。旧社会党が提出した内閣不信任案が可決され、衆院解散に打って出たものの、総選挙で自民党は過半数割れした。結果は細川護熙連立政権の樹立だった。
この自民党分裂劇の出発点が1992年の最大派閥、旧竹下派の覇権争い。「政界のドン」と呼ばれた会長、金丸信の後継の座を巡って、小渕恵三・梶山静六の勢力と小沢一郎・羽田孜の2グループに分かれて激しく対立した。この時の首相だった宮澤は竹下登が推す小渕らとの連携を重視し、分裂後の人事でも梶山を幹事長に起用した。これに反発した小沢が羽田を引き込んで、小渕派に対抗する羽田派を結成して、全党を巻き込んだ政変につながっていくことになった。
それより以前にも、元首相の田中角栄が率いた旧田中派の対立抗争劇で類似の出来事があった。
竹下が「創政会」を結成して、田中に反旗を翻した。その直後に田中が脳梗塞で倒れ、政治生命を失った。時の首相の中曽根康弘は、田中の再起が困難なことを見届けるように内閣改造・党役員人事を行った。この人事で中曽根は蔵相の竹下を続投させ、さらに自民党幹事長に起用した。その結果、竹下は田中派の大勢を掌握して一気に政権の座に駆け上がった。
この二つの前例に比べれば規模も迫力もとても及ばないが、元首相の安倍晋三を失い、会長不在のまま混迷が続く最大派閥の安倍派を巡る状況に通じるところがある。