「その先の人生が何十年も先まで見えてしまった」
――飛び込んだインドで揺さぶられた価値観
斎藤 起業のきっかけについてはまた後ほど伺うとして、続いて「感情曲線」での2度目の大きな「谷」についてお聞かせください。23歳から24歳ということは、大学を卒業された後のことですよね?
奥田 大学卒業後、インドの大学院に進学することになりまして、そこでカルチャーショックやら無力感やら、とにかく自分の価値観やささやかな自信みたいまものまで見事に打ち砕かれました。
斎藤 インドの大学院に進学されたのは、どういうきっかけがあったのでしょうか?
奥田 大学は、教員だった父の影響で、というか、親の言うことは聞くものだと思っていまして、親に言われるがまま、鹿児島大学の教育学部に進学しました。自分でも教員になるものと思い込んでいました。その気持ちが変わったのは、教員採用試験に合格した4年生の夏、父親の赴任先のインドに遊びに行ったときのことです。大きなカルチャーショックを受けまして、そこで人生が動きはじめました。
斎藤 お父さん、離島や僻地の次はインドですか……。
奥田 国の派遣制度だったと聞いています。インドの日本人学校の校長として赴任することになりました。希望赴任地を白紙で出すぐらいの人でしたし、県内僻地を転々としていましたら、適任だということになったんでしょうね。
斎藤 そこで奥田さんの身に何があったんですか?
奥田 教員試験にも受かって、羽根を伸ばすぐらいのつもりで遊びに行ったインドで、格差の大きな社会の現実を見て驚いてしまって……。道端に、手足のない子がたくさんいるんですね。大学では福祉や障害児教育も学んでいましたが、学校で教わった障害児教育で何ができるだろうと思ったらもうショックでした……。
片や、自分が教員になったとして、その先の人生が何十年も先まではっきり見えるような気がしたことにも嫌気が差しました。20~30年現場で教員を務めたらいずれは教頭、校長、教育委員になって……、という道が見えてしまって、決まりきった面白みのない人生を歩くぐらいなら、インドに行きたいという思いがこみ上げてきました。