「チェンジリーダー」養成コースで受けた「洗礼」
――つらい経験こそ、自分の「骨格」になる

斎藤 ご両親は認めてくださったんですか?

奥田 断固として反対されました。私が鹿児島に戻ってきてからは、毎週のように国際電話で親子喧嘩です。国際電話ですから1回1万円ぐらいかかるんですね。それを何十回と繰り返しましたから、何十万円もかけた親子喧嘩です。今思えば、あれは親の愛だったなと感じています。最後は私の粘り勝ちというか、叔母が後押ししてくれたこともあって、父も折れてくれました。

斎藤 それでインドの大学院に進学されたと。

奥田 親の反対を押し切った手前、「インドで社会福祉を学べるいちばんいい大学院に行く」と啖呵を切りました。

 結果、大学院入学は何とか認められたのですが、その後に地獄のような日々が待っていました。大学院での授業は、講義よりもディスカッションや現場でのフィールドワークに重きが置かれていました。インドの過酷な現実を目の当たりにして、ディスカッションで意見を求められても何もまともなことを言えません。言葉の壁もありましたが、それ以前に、日本で暮らしてきた「常識」がまったく通用しない世界で、何もすることができない無力感に打ちひしがれていました

斎藤 それが、「感情曲線」の深い「谷」になるわけですね。

奥田 ええ。ただ、このとき学んだことが後々大きな糧になりました。授業では、「プロフェッショナルとは人を動かす力を持つ人」、「ソーシャルワーカーは既存の制度を変えていく先導者たるべし」という言葉を何度も耳にしました。インドの「福祉」は「社会を変える」ことに力点を置いた、いわば「チェンジリーダー」を養成するコースでした。インドでの2年間が、間違いなくその後の私の骨格をつくっています

後編(10月24日公開予定)では、インドから帰国し、働きはじめた奥田氏が突き当たった壁、そしてそれを乗り越えて「女帝」と言われるまでのネットワークをいかにして築いたかを解き明かします!(構成:萱原正嗣)