「あたりまえ」の付き合いにさえ
必要な生活保護ゆえの努力と工夫

【Q4】「生活保護のくせに国を訴えるなんて、分をわきまえろ」「そもそも過去の生活保護基準はゼイタクすぎた」というネット世論が、少なからず見られます。どう思われますか?

【A4】私は生活保護に対して、暗く考えたりマイナスに考えたりしていません。スティグマ(烙印・恥の意識)とは思っていません。生活保護でできている今の暮らしを、大切なものだと思っています。引き下げで、大変な暮らしになりましたけど。

 8月末の「貧困女子高生バッシング」のとき、「本当は貧困ではないのでは」「これを貧困とは言わない」という意見が数多くありましたけど、私はそう言われた方々に「あなた自身はどうなんですか?」と聞きたいです。自分が必要だと思っているもの、大事に持っているものを、他人に「不要なはずだ」と言われたら、どう思いますか? と。

 今、私の周辺にはそんなふうに批判的に叩いてくる人はいません。勝手に自分の家に入ってきて荒らしていくようなイメージの人は、ネットでもお付き合いしないようにしています。そうしないと自分を守れませんから。

 今、ネット上で交流できている人たちは、私がSNSで「自分は生活保護」という話をしても、特にどうということはなく、そこを叩いてきたりすることはありません。ゴタゴタしたり、ネットトラブルになったりすることは、今はありません。

【筆者コメント】

 本人にとって何が必要なのか? その必要な何かが入手できないことでどのように困るのか? 困り方の程度は? いずれも、本人にしか判断できない。

 ただし、生活保護基準のような公的給付の基準を決定するためには、貧困の質と量を測定するための何らかの指標が必要になる。また「必要」の程度や内容の判断も必要だ。「自家用ジャンボジェットが必要」というニーズを、貧困層のための公的給付で満たすわけにはいかないだろう。

 現在の日本は、それらの指標づくりのための試行錯誤が行われている段階である。「生活保護基準はどう決められるべきなのか?」「健康で文化的な最低限度の生活とは何なのか?」という問いは、「生活保護基準は厚生労働大臣の裁量で決める」という生活保護法の規定によって、現在の制度が成立した1950年以来ずっと、「はぐらかし」をされ続けているようなものなのかもしれない。