社会に対する絶望が繭化した親密圏を生む

 この2つの話は同じ状況を描写しているように見えます。社会からその他大勢の1人として扱われる個人にとって、ほかの誰でもない「自分」を求めてくれる場所は何よりも貴重で必要なものとなりますが、その親密な思いやり空間が公的なみんなの空間につながることを拒否し自らを閉じて繭(コクーン)化するという状況です。

 これを「狂っている」として否定することは簡単です。しかし、他者から求められ、自分が誰かの役に立つ可能性から離れ、システム化した社会の歯車として無味乾燥な毎日を平然と送りつづけるほうが、実は狂っているといえるかもしれない。ほかにも、現実と仮想が入れ替わったところで何が悪いんだと開き直った反論も出てくるかもしれない。

 そもそも現実と仮想の境界だってどこまで確かなものなのか、芸術家も夢の世界を生きているではないか、と。しかし私は、繭化に疑問を持つスタンスをとりたいと思います。

 繭化する親密圏はみな、社会に対する絶望が前提となっているように見えます。絶望ゆえに対話を拒否するのであれば、その雲が晴れることはないのではないか。自分の力なんて微小なもので社会はどうせ変わらないというあきらめた空気が漂ってはいないか。リア充(現実生活が充実している人々)もそうでない人も、この空気を疑ってみる価値はあるはずです。

 マジョリティと思われるものも、よく見ればひとつの繭です。大きな共同体という発想自体がもはや幻想であり、そういった価値観を是とするこれもまた繭であるといえます。

 どちらが主流なのかと問うこと自体が難しくなっているいま、むしろ問題は、繭と繭との間のコミュニケーションが不可能になり、相互にリスペクトなき断絶が起こっている状況にあるのではないでしょうか。そのような環境では、社会はどこまでもかたくなで素気なく自分と無関係な存在になってしまいます。