1945年4月、米軍の攻撃を受けて鹿児島県沖で沈没し、今も海底に眠る戦艦大和。
当時、極秘裏に建造されていたため、その全容にはいまだ未解明の部分が多い。
大和型戦艦の基本計画に参画していた松本喜太郎氏は、昭和9年3月から20年4月まで海軍艦政本部において艦艇の設計に従事し、昭和20年4月以降、呉海軍工廠造船部設計主任、終戦時、海軍技術大佐として大和型戦艦の開発経緯を含めた基本資料のほとんどを手元にそろえていた。
今回は、その松本氏が保持していた設計図をはじめとする一次資料と、戦後間もなく松本氏により発表された大和研究の論文その他を多数収録している『戦艦大和 設計と建造 増補決定版』から一部抜粋して、大和の実像の一端に迫る。

戦艦大和の主砲、副砲は、戦闘力を最大限に考慮した配置だった竣工時の戦艦大和舷外側面、上部平面図。(電探は後日装備された)
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 主砲とは、その軍艦に搭載した大砲の中の最大のものをいう。
 戦艦の近代形式主砲の最大のものは、当時までは各国をつうじ大砲の口径すなわち弾丸の直径41cm、インチでいえば16inあった。
 戦艦大和の最大の特長は、46cmすなわち18in砲を装備したということである。
 第一次大戦以来、各国海軍を支配していた大艦巨砲主義の思想、この考え方に徹した戦艦大和の出現、これをもって国家を泰山の安きにおきうると考えた。

主砲の配置が
戦闘力の発揮に大きく影響する

 図は、戦艦大和の外見図である。本艦の設計上まず第一に研究されたのは、相手方の戦艦との戦闘用である46cm3連装主砲塔3基の配置であった。この配置の適否は戦闘力の発揮に重大な関係がある。艦の左右いずれの舷の戦闘に対しても、主砲の全射線を全幅的に活用しうるために、砲塔全部を船体の中心線上に配置するのは近代軍艦の定石である。

 この前後方向の配置は、最後案に決定するまでには全砲塔を英国のネルソン級のように、艦の前部にまとめる案もあった。この案は砲戦上も防御計画の上からも有利である。前部にすべてをもってくると、船体のバランスが不均衡になり、また、後方への砲火威力を発揮する上から具合がわるい。

 この図のように2砲塔を前方、1砲塔を後方に配置すると、射撃上は好配置であり、重量の釣合はよく、また艦橋の位置が後部にかたよりすぎないから操艦が楽であるなどの理由で、最終的にこの配置が採用された。

 砲塔の下方に設けられる主砲弾庫内の弾丸格納法については、給弾速度の迅速確実という見地から、これまでの形式とはまったく異なった方式がとられた。すなわち1砲身あたり定数100発の弾丸のうち、約半数は砲塔の旋回部内に置き、残りをその周囲の固定部に置いた。いずれも弾丸を直立の形で置き、水圧力で弾丸を横へ移動させるように工夫された。この方式は弾丸の供給を迅速になしうるようにしただけでなく、弾火薬庫内の配置の上からも極めて有利であった。