菅政権の内閣官房参与として、原発事故への対策と原子力行政の改革、原子力政策の転換に取り組んだ多摩大学大学院教授、田坂広志氏に、5ヵ月に及んだ参与としての働きと、野田新政権への期待と課題を訊いた。
(「週刊ダイヤモンド」副編集長 深澤 献)

国民の信頼を失った日本の原子力行政<br />野田新政権が答えるべき「7つの疑問」<br />――田坂広志・元内閣官房参与/多摩大学大学院教授インタビューたさか・ひろし/1951年生まれ。81年東京大学大学院修了。三菱金属(現・三菱マテリアル)、米国シンクタンク・バテル記念研究所客員研究員、日本総合研究所取締役を経て、2000年にシンクタンクのソフィアバンクを設立、代表に就任。多摩大学大学院教授。専門は、社会起業家論。
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──菅政権での内閣官房参与としての仕事、ご苦労さまでした。特に、原発事故が最も予断を許さない状況にあるとき、その対策に取り組まれた立場でしたので、実に大変なご苦労をされたかと思いますが、そもそも、田坂さんは、どのような経緯で内閣官房参与になられたのですか。

 そうですね。福島第一の原発事故は、冷温停止に向かっている現在は、比較的冷静・客観的に語れますが、当初は、全く予断を許さない、極めて緊迫した状況でした。特に事故の直後は、いくつもの対策プロジェクトの立ち上げに取り組み、その運営に追われました。早朝から深夜まで、土日も返上して対策に取り組む日々でした。

 しかし、被災地の方々のご苦労を思えば、我々が「大変だ」などと言える状況ではありませんでした。あの時期、そうした気持ちは、災害対策と事故対策に取り組んだ方々の、誰の心の中にもあったのではないでしょうか。

 私は、これまで60冊余りの本を書いてきましたが、実は、それらの本の中でも、あまり語ってこなかった私の経歴があります。それが、「原子力の専門家」という経歴です。実は、私は、1974年に東京大学の原子力工学科を卒業し、81年に「核燃料サイクルの環境安全研究」で工学博士を取得しました。その後、民間企業で原子力事業に携わり、青森県六ケ所村の原子力施設の安全審査にも関わりました。また、米国の国立研究所で、高レベル放射性廃棄物の最終処分に関する国家プロジェクトに参画したこともあります。

 従って、私のかつての専門分野は、原子力施設の事故評価や放射性物質の環境影響評価などであり、まさに福島第一原発事故の直面している深刻な問題そのものだったのですね。そうした私のバックグラウンドを知って、3月29日、菅総理から福島原発事故対策へのアドバイザーとして、内閣官房参与への就任を依頼されたのです。