──従来の「原子力安全」に対する考えを根本から改めなければならない、と言われましたが、それは、どのような意味でしょうか。

 実は、原子力の分野の「安全」に対する思想は、従来、二つの言葉に象徴されていました。

 一つが、「Fail Safe」。すなわち、いかなる「人為的な失敗」(Fail)があっても、「安全」(Safe)が確保されるという思想です。

 もう一つが「Safety in Depth」(多重防護)。すなわち、もし一つの安全措置が破られても、他に幾つもの安全措置を多重に施してあるので大丈夫、という思想です。これらは、言い換えれば、仮に「人為的なミス」があって一つの安全措置が破られても、「技術的なシステム」の多重性で絶対に安全を確保するという思想です。

 この思想は、「安全技術」に携わる技術者の持つべき思想としては、全く正しい思想と思います。私自身、一人の技術者として、この思想に基づいて安全設計や安全評価に取り組んできました。すなわち、原子力という技術体系は、基本的に、この「安全思想」に基づいて設計され、構築されるかぎり、極めて高度な安全性を実現できると考えてきたのです。

 しかし、実は、原子力の分野を離れるとき、一つ「気がかり」なことがありました。それは、私の専門分野の研究において、過去の世界の原子力施設の事故の先例を調べていくと、実は、その多くが、「技術的要因」によって起こっているのではなく、「人的要因」「組織的要因」「制度的要因」「文化的要因」によって起こっているのです。それが、私にとっての「気がかり」でした。

 そして、その悪い予感が思わぬ形で現実となったのが、1999年に起こったJCOの事故でした。(注:住友金属鉱山子会社の核燃料加工施設「JCO」が起こした臨界事故)。いま思えば不明を恥じるのですが、あの事故のニュースが飛び込んだとき、「臨界事故」と聞いて、私は即座に周囲の仲間に「これは絶対に誤報だ」「この工場で臨界事故が起こるはずがない」と述べたのを覚えています。なぜなら、私自身、昔、同じタイプの工場で働いていたことがあり、こうした工場は、設計上、通常の操作を行っている限り、人為的なミスがあっても、絶対に臨界事故が起こらないように技術的に設計されているからです。

 ところが、ご承知のように、あの事故が起こった原因は、ウラン溶液をタンクに移す際、通常のパイプを使った送液を行わず、作業員がタンクの蓋を開け、バケツを使ってウラン溶液を注ぎ込むということを行ったからでした。

 これは、工場の設計者からすれば、想像もしていなかった操作だったわけです。すなわち、JCOの事故の原因は、設計ミスや機器の故障などの「技術的要因」ではなく、「人的・組織的・制度的・文化的要因」だったわけです。

 そもそも、作業員への安全教育はどうなっていたのか。少しでも臨界安全についての教育を行っていれば、この事故は起こらなかった。また、マニュアルがもっと整備されていれば起こらなかった。さらに、現場の管理はどうなっていたのか。そして、作業員がこうした非常識な方法で作業を急いだ背景に、労働条件の問題が無かったのか。職場の安全文化はどうなっていたのか。そうした様々な人的、組織的、制度的、文化的な要因が複合して、この事故は起こってしまったわけです。

 そして、その視点から見るならば、福島原発事故も、単なる「技術的要因」による事故ではなく、「人的・組織的・制度的・文化的要因」による事故であることが、今後、明らかになってくるでしょう。

 例えば、貞観地震の記録に基づいて津波の高さに関する指摘があったにもかかわらず、なぜ、適切な対策を講じなかったのか。電源喪失事故についても、懸念する声があったにもかかわらず、なぜ、十分な多重・多様電源を準備しなかったのか。こうした疑問の背景には、「経済的合理性への配慮がゆえに、安全性に対する要求が甘くなったのではないか」という疑念、すなわち、安全基準の設定や安全審査の体制そのものに対する国民の疑念があります。

 そして、こうした疑念に対して、政府が国民の納得する明確な答えをすることが難しいのは、原子力を規制するべき原子力安全・保安院が、それを推進する経済産業省と同じ組織の中にあるという問題を抱えているからです。「李下の冠」という言葉がありますが、かねてから問題とされてきたこの組織的問題を解決しないかぎり、3月11日以降、国民は、政府の安全規制を信じることができなくなっているのです。