親会社の撤退という窮地に陥っても
中学生以下の育成組織「アカデミー」を守り抜く

 長引く平成不況の煽りを受ける形で、前身の日本リーグ時代から責任企業を務めてきた準大手ゼネコンの株式会社フジタが撤退したのが、J2降格を喫した直後の1999年末。親会社を持たない市民クラブとして再出発した2000年を境に、チーム名称も「ベルマーレ平塚」から「湘南ベルマーレ」へと変更された。

「サッカーを愛するたくさんの市民の方々、行政の方々、そして株主の方々に支えられ、生かされてサッカーをすることができている。ただただ感謝するしかないし、どのようにしてお返しすればいいのかを常に考えてきました」

 強化部長に就任した2002年からベルマーレと歩みをともにし、2015年12月から現職を務める水谷社長は、例えれば生きるか死ぬかとなる、激動の真っただ中にあった2000年代前半をこう振り返る。

「2005年までは、とにかくクラブを存続させるためにみんなで歯を食いしばって、絶対に潰してはいけないという思いでした。今も鮮明に覚えているんですけど、現会長の眞壁と当時の社長が『上を見ないとやっぱり面白くないよね』という話をしていたんですね。ちょっとずつですけど無理をしながら、何とかたどり着いたのが2009年のJ2で3位に入り、10年ぶりに決めたJ1への復帰でした」

 重ねてきた無理の中には、地元のホープたちを育て上げる、アカデミー組織の存在を死守した一件も含まれている。子どもたちをプロへと導くには時間、根気、そしてお金がかかる。トップチームが目の前のシーズンを戦う予選を組み立てるのにも四苦八苦していた中で、こんな提案が出された。

「高校生だけ残して、中学生以下の世代は一度なくそう。経営が安定した時に、もう一度作ればいい」

 これに対して真っ向から異を唱えたのが、常務としてベルマーレの経営に参画したばかりの眞壁氏だった。その脳裏にはJR平塚駅前で、横浜F・マリノスのトリコロール色のバッグをもったサッカー少年を何度も見かけた時に抱いた、一抹の寂しさが刻まれていた。

 川崎フロンターレと横浜FCを含めて、当時でJクラブが4を数える神奈川県内のマーケットで生き残っていくことへの危機感も頭をもたげていた。アイデンティティーを鮮明に打ち出すためにも、アカデミー組織だけはなくしてはけない。ベルマーレをトップとするピラミッドの裾野は、どんな状況でも大きく広がっていなければいけないと眞壁氏は訴えた。

 誰よりも眞壁氏自身が、理想論であることを理解していた。活動継続に必要な資金をやり繰りする方策も、すぐには思い浮かばなかった。それでも眞壁氏の主張は受け入れられ、中学生以下の普及・育成部門も存続された。