ディコーラムを使うと、聴衆に向かって「私の言うとおり、やるとおりに行動してください」というメッセージを伝えることができる。聴衆の声をうまく代弁することも可能だ。とはいえ、必ずしも聴衆と同じように振る舞う必要はない。
たとえば、聴衆の平均よりも少しだけいい服を着たほうがいいだろう。大人は、子どもに対してディコーラムを間違って使うことがある。3歳の子どもに向かって赤ちゃん言葉で話しかけるのは、大人から見ると馬鹿みたいに見えるが、当の3歳児から見てもやはり馬鹿みたいに見えるだろう。その場に合ったディコーラムを示すには、聴衆と同じではなく、聴衆の「期待に沿った」振る舞いをしなければならない。
私たちの目には、ディコーラムとは小難しくて実用性のない技術であるように映るが、先人が書き残したディコーラムのマニュアルを見ると、現代のベストセラーである『成功する人の着こなし術(How to Dress for Success・未邦訳)』や『1分間マネジャー』などで語られているテーマ――声のトーン、身振り、服装、間の取り方、礼儀作法など――と同じことが推奨されている。 どの時代にも、その時代のルールが存在する。人間は常に、社会環境の変化に合わせてルールを変える。昔はジャケットとネクタイを着用して映画を観にいったものだし、映画館でたばこを吸うのも普通だった。
映画と言えば、私の母が14歳のとき『風と共に去りぬ』がペンシルベニア州、ウェイン郡の映画館にもやってきた。レット・バトラーの荒っぽい言葉に、当時の観客はゾクゾクしたという。私の母も、映画のなかで俳優が悪態をつくところを見るのを楽しみにしていた。レットが「正直に言って、俺の知ったこっちゃない」と言った場面では、観客が息をのむ音やささやき声が、いっせいに聞こえたらしい。「それほど衝撃的なセリフだったのよ」と、後年、母は語った。
聴衆の期待に沿った振る舞いで、説得力を増す
私たちの態度は、時代を経て、どのように変化してきただろう。現代のいわゆる「政治的正しさ」という概念をうっとうしいと思っているタイプの人たちは、必要に応じて「適切さ」が変わることを嘆いているかもしれない。そう、風習にこだわる人はいるものだ。だが、ここで問題にしているのは風習ではない。いま私たちは、レトリックという伝える技術の話をしているのだ。
もちろん、その場の作法に合わせなければならないという法律があるわけではない。ありのままを語ればいい。だが、「適切でないこと」と「説得力があること」は両立しない。このふたつは、相容れないのだ。