「WHY」に至らず「HOW」や「WHAT」に留まる日本企業

 これは、日本国内の時価総額ランキングトップ20の常連、日本を代表する企業キヤノンのミッション・ステートメントである。なるほど、確かに何を目指すかという使命=ミッションを表しているからミッション・ステートメントの体は成している。

 だが、この場合も、企業名の「キヤノン」を外した場合、これがどこのミッション・ステートメントであり、企業理念なのかが、わかる人はいるだろうか?

 これが定義されたのは、今から30年前の1988年、日本はバブル真っ盛り。キヤノンにとっては創業50周年の翌年という節目だったという。世界人類だとかグローバルということだから、より世界に冠たる企業になろうという意思を感じる。

 また、この時代、企業の社会的責任などが叫ばれ、一企業としての利益を求めるのではなく、社会との「共生」を目指すということが多く喧伝されたのだが、この流れに乗ったのであろう。

 しかし、社会と敵対的であろうと公言する企業があるだろうか? 「共生」はどの企業でも等しく企業としてこの世で生きていく上で前提となるものだろう。

 ここで東芝やキヤノンを批判したいわけではない。論点は、ともに日本を代表する模範的企業であった東芝やキヤノンですら、自らの存在価値=バリュー・プロポジションには無頓着であるということである。

 トヨタや京セラなど日本を代表する企業の多くの企業理念やミッション・ステートメントに目を通してみるとわかるが、日本企業に特徴的なのは、企業としてどういう価値を提供するか? なぜその企業は存在するのか? という「WHY」に関する定義が少なく、あくまで行動規範や行動理念のような「HOW」や「WHAT」に留まっているということである。

 しかも、それらの多くは、創業者や中興の祖の言葉として神格化され、お題目のように従業員に浸透させることだけに終始しているのが実態だ。

 シリコンバレー企業が社会の中で、あるいは顧客に対して、どのような価値を創造・提供していくかに力点を置くのに対して、「どのような価値を世の中にもたらすのか」という視点の欠如は、企業の新旧を問わず、そして勝者か敗者かを問わず、日本企業の多くに共通する点だ。

(この原稿は書籍『破壊――新旧激突時代を生き抜く生存戦略』から一部を抜粋・加筆して掲載しています)