AIの人権問題を投げかける傑作
『Detroit: Become Human(デトロイト:ビカム・ヒューマン)』

 まず、AIが完全なる「機械」であれば、当然ですが人権など必要ないでしょう。どんなに便利でも、自動車に人権がないのと同じことです。

 しかし、機械学習をしたAIは、あたかも人間のような振る舞いをします。恐らく、そこに心は宿っていないと思われますが、人間のように見て、聴いて、話すAIを自動車と同列の「機械」と扱ってもいいものでしょうか。

 現在、『Detroit: Become Human(デトロイト:ビカム・ヒューマン)』というゲームが大人気で、極めて高い評価を得ています。
 私もプレイしましたが、マルチエンディングなので、一概に「このようなストーリーです」とは言えないのですが、簡潔に述べさせてください。
 舞台設定は2038年のデトロイトで、この時代には進化したAIとロボット工学によって多数のアンドロイドが生産されています。
 しかし、突如、それまで人間に支配・抑圧されてきたアンドロイドたちが、次々に「不公平」という概念を持ち始めます。そして、明白に自我が芽生え、やがてはアンドロイドたちが人権を訴え始めるというストーリーです。

 このゲームの影響を受けたわけではありませんが、前述したように、AIが偏見を持つ元凶になっているのは私たち人間です。言うなれば、人間の持つ偏見が、ビッグデータを通じてAIに遺伝しているわけです。
 それを棚に上げておいて、「人間の人権」ばかりを議論して、「AIの人権」をまるっきり無視するような行為がはたして正しいのか。
 私は、シンギュラリティを考えるときには、必ずセットでこの問題を考えるのですが、みなさんはどう思われますか。

 さて、このAIは、「ディープラーニング」と呼ばれる自力学習をする「子どものAI」と、人が一から教えて丸暗記させる「大人のAI」に分かれます。
 同じAIといえども、両者でどれほどの違いが出るのかは、第1回連載の中で「子どものAI」であるGoogle翻訳と、「大人のAI」である別の翻訳サービスに同じ英文を日本語に翻訳させて、まったく異なる結果になるケースを紹介していますので、そちらを併せてお読みいただけたら幸いです。