灼熱の棒を掴んでも3分の2が火傷しなかった

 判事は50人のアダムの一人ひとりに二者択一を迫る。罪を認めるか、神判を受けて神の手に運命を委ねるかだ。現代の感覚からすると、有罪か無罪かを判断するのに、神判が有効な方法だなんてとても思えない――でもじつは有効だったりして?

 データを見てみよう。ジプシーの法律や海賊の経済学なんてテーマの研究にとりくんでいる経済学者のピーター・リーソンが、まさにそれを調べた。

 13世紀ハンガリーの教会の記録をあたってみると、神明裁判の段階に進んだ訴訟が308件あった。このうち100件は、最終結果が出る前に打ち切られていた。残りの208件では、被告が司祭によって教会に呼び出され、会衆が遠目で見守るなか、祭壇に上がって熱した鉄棒を握らされた。

 208人のうち、ひどい火傷を負ったのは何人だと思う? 208人全員? 彼らが握ったのが真っ赤に焼けた鉄棒だってことを忘れちゃいけない。百歩譲っても、207人か206人?

 実際の人数は78人だった。残る130人、つまり神判を受けた被告のほぼ3人に2人が、奇跡的に火傷を負わず、身の潔白が証明されたことになる。

 この130の奇跡が正真正銘の神の奇蹟だったという以外に、説明のしようがあるだろうか?

 ピーター・リーソンは、答えがわかっているという――「司祭による細工」だ。司祭はどうにかして神判を本物らしく見せながら、被告が火傷をしないよう細工したにちがいない。これは難しいことじゃない。司祭はその場を完全にとり仕切っていたからだ。もしかしたら熱した鉄棒を、冷えているものにすり替えたのかもしれないし、熱湯神判のときは会衆が教会に入る直前に、大釜に冷水をたっぷり入れたのかもしれない。

 司祭がなぜそんなことをするのか? 同じ人間として憐れみをかけたのか、それとも被告に袖の下をつかまされたのだろうか?

 リーソンの説はちょっとちがう。ここで少しのあいだ、法廷が判決を下せずにいる50人のアダムの話に戻ろう。仮に、この50人のなかには、罪を犯した人も犯していない人もいるとする。前にも言ったように、罪を犯した人と罪のない人は、同じインセンティブにちがう反応を示すことが多い。この場合、罪を犯したアダムと罪のないアダムは、それぞれどんなことを考えているだろう?

 罪を犯したアダムはたぶんこう考えている。「神はぼくが罪を犯したことを知っておられる。だから神判を受けたらひどい火傷を負うに決まってる。つまりブタ箱にぶちこまれるか罰金をくらったうえ、火傷に苦しみ悶えながら一生を過ごすことになる。そんなら神判を受けずにさっさと罪を告白したほうがましだ」

 それじゃ罪のないアダムはどう考えている? 「神はぼくが潔白だと知っておられる。だから神判を受けるぞ。炎の呪いでぼくが傷つくことを、神がお許しになるはずがない」

 つまり神が神判に介入するはずだという信念によって、「罪のない被告だけが神判を進んで受けようとする、分離均衡が生み出された」と、リーソンは書いている。

 そう考えれば、308件の神判のうち100件が打ち切られたことの説明がつく。打ち切られた訴訟の被告は十中八九、原告と和解したんだろう。彼らは罪を犯していて、このまま処罰を受け入れたほうが、火傷という余計な罰を負わずにすむと考えたのだ。