国民の権利はく奪も空気づくりから始まる

 山本氏は、この「何かの力」に関連して、次のような指摘もしています。

「人間の健康とか、平和な市民生活」が起点であるように、かつての日本軍もその発想の起点は、国家・国民の安全であり、その「生活圏・生命線の確保」であり、このことは繰りかえし主張されていた。だが、その「起点」に「何かの力」が作用すると、一切を壊滅さす方向に、まるで宿命のように走り出し、自分で自分を止め得ない(*7)。

「何かの力」は、なぜこのような巨大なテーマにまとわりついているのか。

 日本軍が「生活圏・生命線の確保」などの巨大なテーマを持ち出したのは、恐らくこの巨大なテーマを持ち出すことで、それ以外の一切を無視しても仕方がないという空気(=前提)をつくり出すためだったのではないでしょうか。

 つまり、極度に重大なテーマを意図して掲げるのは、他のことはすべて無視されても、踏みにじられても仕方ないと大衆に思わせる詐術、前提づくりなのです。

 山本氏の指摘のように、「国家・国民の安全」を名目に、国民のあらゆる権利をはく奪して、資産をすべて奪い取るのも止むなしという空気の醸成を狙ったのでしょう。

虚構に依存する者の末路

 日本では戦争中に、巷で「敗戦主義者」という言葉がありました。

 戦争に日本は負けるのではないか、と懸念すると「そういうことを言うやつがいるから敗けるんだ(*8)」と、負けるという言葉を発することが、あたかも勝敗に影響を与えるような非難をしていたのです。

 日本は戦争に必ず勝つ、この物の見方を共同体に強制するのは明らかに虚構です。集団の情況(物の見方)と現実は一切関係なく、完全に異なるものだからです。

「そう言う者がいるから負けるんだ」という非難には、つくった虚構が崩れると、現実そのものも暗転するような、虚構にすがる、依存する感覚があるのです。

 なぜ人や集団、大衆はつくられた虚構に次第に依存していくのでしょうか。行動を始めたきっかけが「ある虚構」ならば、行動を正当化するために、その虚構が正しいことを自ら主張する必要にせまられるからです。

 不慣れな道を、地図やナビの矢印を根拠にして進むとき、次第に道が怪しくなったら、その人が自分の行動を正当化するには「地図にそう書いてあった」「ナビがこの方向を示したんだ」となるのではないでしょうか。

 会議であれば「みんなが賛成したから可決したんだ!」「みんなが戦争に勝てると言ったから始めてしまったんだ」などの言葉になるでしょう。

 これは日本の情況倫理による典型的な意思決定の形です。みんなが同じ物の見方を共有すれば、それが正しい方向だと考えてしまう。

 一方で、現実が虚構と食い違い始めると、「私はあのとき反対したんだ」などと言い始める人も当然出てきます。

 しかし、ここで振り返りたいのは、重要な議題を決断するために、「みんなが考えていた方向」以外のことを本当に検討したか否かです。

 科学的な分析はしたのか、物量、数量、勢力差などの数字は比較したのか。どのような論理や根拠があって、会議の参加者は賛成または反対をしているのか。

 みんなで固めた「物の見方(情況)」と違う現実が出現したとき、集団の物の見方をさらに拘束するのではなく、正しい現実の把握が打開の第一歩のはずです。

 しかし、甘い夢を見る愚かなリーダー、心の弱い者は虚構に最後までしがみつきます。 そのような者たちは、虚構ではなく現実を知った者を、弾圧して叩きまくるのです。

 誰かが空気を醸成して、その結果みんなが同じ物の見方に染められたなら、最重要の決断の根拠さえ、「みんなが賛成したから」以外の理由がなくなります。

 表現を換えるなら、「決断の根拠はみんなで共有した虚構です」という意味です。これが空気による集団の操作であり、虚構に依存した人たちの末路なのです。

(注)
*7 『「空気」の研究』P.152
*8 小室直樹/山本七平『日本教の社会学』(ビジネス社)P.58

 (この原稿は書籍『「超」入門 空気の研究』から一部を抜粋・加筆して掲載しています)