起業しようとする東大生が、社会起業家をめざす不思議

柴山 同様の問題が、おそらく大企業の研究開発部門でも起きているのではないでしょうか。かなり大きな予算や、技術と特許をもっていても、爆発的なヒットにつながるような製品サービスに結実できていない。たとえばiPhoneにしても、必要な技術は日本の電機メーカーもひととおり持っていたのに、消費者の求めるプロダクトを作ることはできませんでした。そこは、課題を能動的に設定して、それを解くために自分たちの知識や技術をどう使っていけばいいのか、という意識がまだ発展途上にあるからではないかと感じます。

松尾 資本主義経済は、おのおの個人が「儲けたい」と思うことがベースになって、いろいろな活動が組織化されて大きくなってきたはずなのに、日本ではその原点を忘れている人が多い気がします。少なくとも戦後、高度経済成長の時代は、多くの人がそういった気持ちを持っていたのだと思います。中国やシリコンバレーは、「儲けたい」という気持ちを誰もが普通に持っているからこそ、いろいろな仕組みもスムーズに動きますが、日本では「儲ける」なんて口に出さないことが美徳とされ、国全体に「儲ける」意識が希薄です。

 大学の場合も、学問分野によって異なりますが、少なくとも理学部と比べて工学部は産業に資するための学問分野であり、産業が成長するなかで必要な知識を体系化して提供して、その産業が進展することを手伝うのが本来の役割だと思います。でも、そういう原点は忘れられて「産学連携を推進しましょう」とあえて声高に旗を振るのもおかしな話のように感じます。

柴山 最近は東京大学でも、大企業に就職するのではなく起業したい、という学生さんが少しずつ増えていると聞きますが…。

日本人がもつ「儲け」への背徳感が、研究も事業も停滞させている「日本はもっと現実を直視すべきではないか」と松尾さん

松尾 起業家を志す人はいるんですけど、東大生の場合、やはり「儲ける」というところから若干乖離してしまって、社会起業家を目指す人も多いですね(笑)。普通の起業家としてでも成功するのは大変なことだし、仮に成功すれば、社会的に良いことは沢山できるよ、と話すんですよ。

柴山 日本社会全体で「儲ける」ことを口に出すとカネの亡者みたいに言われますし、特に研究者の間では、儲けるよりもっと何か崇高な目標のために研究をするべきなんじゃないかと批判されそうですよね。

松尾 そうですね。もちろん、人間の価値や社会の文化は、「儲ける」だけで語れるものではないこともよく分かっています。資本主義のいろいろな矛盾があることも分かっています。でも、それはある種、成功した人の言えることであって、日本が世界全体から経済成長で置いていかれている今、もっと現実を直視すべきではないかと思います。そして、適切に「儲ける」ことを意識することで、それぞれの役割がもっと明確になると思います。

 たとえば、基礎研究の社会的な意義ってものすごいのです。しかし、それが価値につながってない。研究から事業化まで儲けのバリューチェーンがつながってこそ初めて役割分担ができる、と考えています。まずは、このバリューチェーンをしっかりつなげなければいけない。そのうえで、たとえば基礎研究であればお金儲けと全然関係なく、研究者の好奇心でどんどん進めるべきなのです。そして、基礎研究で出てきた技術をビジネスにつなげる人は、プロフェッショナルとしてそこを誰よりもうまくやるべきだし、最後はきちんと売上をあげ、利益を出し、大きく成長するような事業につなげるべきなのです。そうやって初めて、研究者が基礎研究をしっかりやってくださいねという役割分担ができるじゃないですか。

柴山 自分がどの役割を果たすのかという意識を明確にもつことが大切ですね。たとえば数学だと、400年ぐらい前の数学的な発見が今のわれわれの生活や、日頃使っている製品サービスにつながっている。自分がやっている研究は400年先に役に立つかもしれないことなのか、400年前の発見をベースに社会で実用化できることを生み出す仕事なのか。そこを意識しないと、担うべき責任と、果たしている役割・行動がチグハグになりそうです。

基礎研究に携わる人の価値は、独自の行動原理にある

松尾 AIでも非常に不思議な議論があるんですよ。いまAIブームで、特にディープラーニング(深層学習)によってさまざまに実用化されてきていますから、それが日本では予算配分の話になると「ディープラーニングは、何十年も基礎研究としてやり続けて成功した技術なので、日本もAIの基礎研究に予算を分配するべきだ」と言うんです。もちろん、一般論として基礎研究にきちんとお金をかけたほうがいいとは思います。でも、AIの現在のフェーズに限って言えば、基礎研究から生み出されたディープラーニングというすごい技術を、どうやって新しい事業にしようかという点で世界中がしのぎを削っている段階です。予算をつけるならこの最先端の技術に関連するもの、そして実用化を見据えたものにすべきでしょう。

柴山 基礎研究は重要だけれども、分野によっては基礎研究にお金を投じるフェーズは過ぎているわけですね。

松尾 特に基礎研究に携わる人たちは、数百年後に役に立つだろうなんて考えていなくて、知的好奇心に突き動かされているだけなんですよね。でも、この知的好奇心にドライブされた研究は、やっぱりすごいものを生み出すことがあります。資本主義における人の行動はどうしても利益にドライブされるので、行動の方向性が似てきます。というより、それを強制するシステムです。そのなかで、知的好奇心で動く人は他者とは違う方向に踏み出しやすい。軍隊でいえば遊撃隊や偵察隊に似て、多くのプレイヤーと行動原理が違うところこそに意味があるんです。

 しかし、最近は基礎研究であっても社会にどう役に立つのかなんて問うて、予算をつけるためには研究の提案書を書かせたりする。すると、せっかく違う行動原理をもつ人たちが、社会の多くの人とベクトルを合わせてしまうことにつながって、意味がないです。むしろ、そういうのが下手な人たちが基礎研究をやっているわけですから。いまの日本の状況は、バリューチェーンがつながってないまま、基礎研究をやる人に事業化を考えろと無理を言っていることも多いと思います。

日本人がもつ「儲け」への背徳感が、研究も事業も停滞させている「日本ではハーバードの中でもビジネススクールやロースクールばかり注目されがちだけど、大学の本質はそこではない」と柴山さん

柴山 大学の中でも、行動原理が違う世界があるべきだというわけですね。たしかに、基礎研究と応用研究の両方があって大学ということなのでしょう。

 たとえばハーバード大学の正式名称は「ザ・プレジデント・アンド・フェローズ・オブ・ハーバード・カレッジ(The President and Fellows of Harvard College)」といって、プレジデントは学長を指すのですが、フェローというのは何かというと、学生に教える義務もなく、研究の成果も問われない研究者たちのことを指します。フェローの唯一の義務は月に何回かファカルティクラブに集まってランチを一緒に食べることなんだそうです。

松尾 それは羨ましいですね(笑)。

柴山 たまたま親しい友人がこのハーバードフェローに就任したことがあり、純粋数学が専門なのですが、当時、彼の横に座って一緒にランチを食べていたのは98年にノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・セン(1933年~)らだというんです。センはインドを中心とする社会問題を経済学的アプローチで解こうとしている一方、私の友人は整数論という現代の社会問題の解決にはほど遠い勉強をしていて、2人の専門分野はまったく関係がない。ところが、そういう行動原理のまったく違う人たちが一緒にランチをとって雑談することにハーバードは価値を見出していて、その両方の立場の人がいてこそ「大学」だ、という考え方なのでしょう。彼らを中核としながら、大学教育の機能を担っていて、その教育機能の一番末端に実学を教えるビジネススクールやロースクールがあるんだ、と私なりに理解しています。日本から見ると、その末端部分のハーバード・ビジネススクールやロースクールばかりが注目されがちですし、私もそこに留学した身ではありますが、大学の本質はそこではないんですよね。各学部のキャンパスがどのあたりにあるか、上空から見れば、その学内での位置づけがわかります。

松尾 そうですね。大学の基礎研究や教育の意義は間違いなくありますし、それが大学の本質だと思います。ただ、日本でよくあるように、そういう基礎研究をやっている人に、研究の提案書を書かせて、それが社会にどう役立つかを説明しろなんて言ってもうまくいくわけないんです。だいたい、そういう事務仕事が下手で、自分の知的好奇心に特化している人ばかりなので。総じてバランスが悪い人たちなんですよ、いい意味で。

柴山 そうですよね。アダム・スミスみたいに、考え事をしていたら自分の村から出ていた、みたいな変わり者ばかりですし。(後編につづく)