古今東西で起きた金融バブルとその崩壊過程を描いた『バブルの物語』。“経済学の巨人”と称された故ジョン・ケネス・ガルブレイスが著した同書は、バブルを希求する人間の本質と、資本主義経済の根幹に迫った名著として長く読み継がれてきた。
そして今、世界中で株価が乱高下し、先行き不透明感が増している。はたして現在の経済状況はバブルなのか? だとすればその崩壊は迫っているのか? それを判断するうえで『バブルの物語』は極めて有効なビジョンを与えてくれる。同書のエッセンスを紹介する連載の第4回は、バブルで傷つかないための唯一の方法について。
重要だが顧みられない「歴史の教訓」
我々が生きていくうえで、歴史の教訓を参考とすることは極めて重要であり、当然のように行われていることでもある。歴史の教訓を知らない人は、過去の失敗を繰り返すことを運命づけられてしまう。
だが歴史の教訓といっても、経済や金融におけるそれは当惑するほど不明瞭なものだと『バブルの物語』でガルブレイスは述べる。なぜかと言えば、経済や金融の実態が継続的な転形過程にあるからだ、と。
それゆえ、人々はバブルを生み、それに踊り、最後に訪れる崩壊に翻弄されることを繰り返すのだろう。
しかし、たとえそうだとしても、支配的な状況が同じであるなら、歴史の教訓は人がどうしても従わねばならないものであり、それこそが『バブルの物語』で主張したいことだとガルブレイスは述べる。
そしてある種の諦観を漂わせながら、以下のように記すのだ。
「議論の繰返しになるであろうことを顧みず、こうした幾つかの教訓を要約しておこう。金融的熱狂の過ちが繰り返し起きるよう仕向ける事情は、その作用する仕方に関するかぎり、1636〜1637年のチューリップ狂の時以来、何ら変わっていない。
個人も機関も、富の増大から得られるすばらしい満足感のとりことなる。これには自分の洞察力がすぐれているからだという幻想がつきものなのであるが、この幻想は、自分および他の人の知性は金(かね)の所有と密接に歩調をそろえて進んでいるという一般的な受けとめ方によって守られている。」
「このようにして生じたこのような考え方から、値をせり上げるという行動が生まれてくる。このせり上げの対象は、土地であれ、証券であれ、あるいは近年には美術品であるとか、さらにはまたアメリカや日本で見られるようにゴルフ場開発であってもかまわない。個人的にも集団的にも賢明なことをしていると信じ込まれている事情は、価値上昇の動きによって確証される。」
「このように上昇が続いた後、大きな幻滅と暴落の時がやって来る。この暴落は、すでに述べたことから明らかであると思うが、穏かに来ることは決してない。この暴落は、必死になって何とか逃げ出そうとする努力を伴うのが常であるが、そうした努力はたいてい失敗する。」
このような流れで暴落が起きると、投機に関わっていた人々は、自分が愚かであったとは決して思いたがらない。また主流派の経済学では「市場」は本来完全なものであるとされている。
そこで、最も無意味な問いが最も強調されることになる。つまり「誰が暴落のきっかけを作ったのか?」「崩壊をこれほど激烈なものにした特殊要因は何か?」「誰を罰すべきなのか?」
こうして人々は、バブルを先導した目立った人物(ガルブレイスはそれを「暴落の前に必ず現れる天才」と呼ぶ)や、市場に悪影響を与えた外部要因を見つけ出して血祭りにあげようとする。それらの犯人さえいなければ、市場は高止まりするか、さらに上昇するか、たとえ下落したとしても穏やかに人々に苦痛を与えることなく終わったはずだとして。
しかしガルブレイスはこうした考えを否定し「上昇が上昇を呼ぶ投機のエピソードが市場自体に内在していることは明らかである」と断言する。そして「現実の経済において、大きな投機のエピソードくらいひどく故意に誤解されているものはない」と嘆くのだ。