「事実誤認」は発言への信頼性を損なう
クイン・エマニュエル・アークハート・サリバン外国法事務弁護士事務所東京オフィス代表。カリフォルニア州弁護士
1971年シカゴ生まれ。1910年代に祖父がアメリカに移住した、ポーランドにルーツをもつユダヤ系移民。ダートマス大学在学中に日本に関心をもち、金沢にホームステイ。日本に惚れ込む。1993~95年、早稲田大学大学院に留学。98年、ハーバード法科大学院修了。ハーバードの成績トップ5%が選ばれる連邦判事補佐職「クラークシップ」に従事する。99年、アメリカの法律専門誌で「世界で最も恐れられる法律事務所」に選出された、クイン・エマニュエル・アークハート・サリバン法律事務所(現)に入所。2005年に同事務所パートナーに就任。カリフォルニア州の40歳以下の優秀な弁護士に贈られる「Top20under40」を35歳で受賞する。専門は国際的ビジネス・知財訴訟、国際仲裁。「日本の味方になりたい」という願いを叶えるために、日米を行き来しながら一社ずつ日本企業のクライアントを増やし、2007年に東京オフィスの開設を実現。2010年に日本に常駐するとともに東京オフィス代表に就任した。これまで、NTTドコモ、三菱電機、東レ、丸紅、NEC、セイコーエプソン、リコー、キヤノン、ニコン、円谷プロなど、主に日本企業の代理人として活躍するほか、アップルvsサムスン訴訟など国際的に注目を集める訴訟を数多く担当。また、東京大学大学院法学政治学研究科・法学部非常勤講師、早稲田大学大学院、慶應義塾大学法科大学院、成蹊大学法科大学院、同志社大学法学部の客員講師などを歴任。日本経済新聞の「今年活躍した弁護士(2013年)」に選ばれたほか、CNNサタデーナイトのレギュラーコメンテーターも務めた。
これは、ビジネスの交渉でもまったく同じだ。
交渉に関係する事実を正確に把握することが、すべての出発点であることは言うまでもない。客観的事実をしっかりと積み上げて、状況を把握しておくことが交渉の大前提なのだ。
なんらかのトラブルが発生して、取引相手と善後策を協議するときには、トラブルが発生した経緯を正確に把握することを徹底しなければならない。取引先とのメールの送受信日時と内容など証拠が残っているものは、現物をすべて確認。証拠が残っていない会話などについては、関係者のヒアリングをするなどして状況把握に努めるべきだろう。それが原因究明、解決策の立案など、すべての基礎となるのだ。
そして、事実を正確に把握しておけば、それが「武器」となる。
万一、相手が自分にとって都合のよい事実だけを取り上げて、一方的にこちらの非を責め立てようとするならば、相手にとって都合の悪い事実を示すだけで黙らせることができるだろう。
あるいは、相手が事実誤認をしていれば、格好の標的となる。たとえ、些細な事実誤認であっても、それを指摘すれば、相手の主張に対する信頼性を損ねることができる。「そんな基本的な事実も押さえていない人間の言うことは信頼できない」という心証が生まれるのだ。そして、発言の信頼性を落とした者は、必然的に交渉において力を失うのだ。
自分に見えている「事実」を押し付けない
ただし、「事実」を扱うときに忘れてはならないことがある。
人間は、自分が見たいようにしか見ない生き物だ。だから、「事実」はひとつであるはずなのに、自分に見えている「事実」と、相手に見えている「事実」が異なることがあるのだ。その認識がないまま、自分に見えている「事実」を相手に押し付けようとしても交渉はうまくいかない。
たとえば、年収500万円のAさんが給料に不満をもっているとする。仕事を熱心にやって、だいたい平均以上の成績を収めている。しかし、年功序列型の給与体系で、自分より成績の低い年配者のほうが給料が高い。同業他社の同年代と比較しても、自分の給料は少ない……と不満を募らせているわけだ。
ところが、社長は、経営環境が悪化していることもあり、人件費が重荷になっていると認識している。つまり、年収500万円という「事実」は同じでも、Aさんは「安い」と思っているし、経営者は「高い」と思っているということだ。
そのような状況のなか、Aさんが「私は平均以上の成績を残しているのに、年収500万円は安いと思います。給料を上げてほしい」などと社長と交渉しようとしたらどうなるか? 社長は、「この経営の厳しいときに、何を言い出すんだ。500万円でも高いというのに……」と態度を硬化させるに決まっている。交渉が成功する確率は限りなくゼロに近いだろう。
では、Aさんはどうすべきなのか?
私は、交渉に臨む前に、相手になりきって、年収500万円という「事実」を見てみるべきだと思う。社長の目には「事実」がどう見えているのかを考えてみるのだ。
そのためには、会社の経営状況や総人件費なども調べてみる必要があるだろう。ベテラン社員に、「社長は、社員の給料についてどう考えているのか?」と聞いてみてもいいだろう。
それらの情報をインプットしたうえで、社長になりきって考えてみれば、自分が見ていた「事実」とは、まったく違う「事実」が見えてくるはずだ。そして、その「社長にとっての事実」を認めたうえで、相手を説得するロジックを組み立てるのだ。
たとえば、こんな具合だ。
「私の年収は500万円です。もちろん、会社の経営状況を考えれば、決して安い給料ではないと思います。しかし、他社の給与水準と比較すると低いのも実態です。それでは、優秀な人材を採用するのも難しいのではないでしょうか? そこで、業績連動型の給与体系に移行することで、人件費総額を変えずに、結果を出した社員に還元する仕組みにしてはどうでしょうか?」
これならば、社長も話を聞こうという気になるのではないだろうか。少なくとも、Aさんが「私は平均以上の成績を残しているのに、なぜ、年収が500万円なのか?」と、自分にとっての「事実」を押し付けるよりも、よほど実りのある交渉ができるはずだ。