元財務大臣が十代の娘に語りかけるかたちで、現代の世界と経済のあり方をみごとにひもとき、世界中に衝撃を与えているベストセラー『父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』(ヤニス・バルファキス著、関美和訳)がついに日本に上陸した。
ブレイディみかこ氏が「近年、最も圧倒された本」と評し、佐藤優氏が「金融工学の真髄、格差問題の本質がこの本を読めばよくわかる」と絶賛、ガーディアン紙(「新たな発想の芽を与えてくれるばかりか、次々と思い込みを覆してくれる」)、フィナンシャル・タイムズ紙(「独自の語り口で、大胆かつ滑らかに資本主義の歴史を描き出した」)、タイムズ誌(「著者は勇気と誠実さを併せ持っている。これぞ政治的に最高の美徳だ」)等、驚きや感動の声が広がっているその内容とは? 一部を特別公開したい。

心が満たされることの価値

 エギナ島に陽が落ちようとしている。夏の夕方だった。私は君とベランダに座って、海の向こうのペロポネソス山脈に赤い夕陽が沈んでゆくのを眺めていた。私が子どものころ、父がよく話していたように、私も君に、沈む夕日はなぜ赤いのかを科学的に説明しはじめた。せっかくの素敵なひと時が台無しだ。

 その晩、友人夫婦とその幼い息子のパリスを誘って、マラソナス・ビーチにあるお気に入りのレストランまでボートで向かった。食べ物を注文していると、パリスがみんなを笑わせはじめた。パリスはノリノリではしゃぎ、私たちを大いに笑わせてくれた。いつもはむっつりしている友人もつい笑ってしまうほど、楽しい晩だった。

 食べ物がくる前に、コスタス船長が、頼みがあると言いにきた。

 コスタス船長は、レストランの裏にある船着き場の私たちのボートの横に、自分の漁船を停めていた。船の錨が海底の岩に挟まってしまい、引き上げようとしたら鎖が切れてしまったという。

「お願いできませんかね? 先生、ダイビングがお好きでしょう? ひとつ潜って、この縄を錨の鎖に結んでもらえませんか? できれば自分でやりたいところなんですが、今日は持病のリューマチが痛んじゃって」そう頼まれた。

「いいよ」人助けのチャンスだと思って、喜んで海に飛び込んだ。

 夏の夕暮れ。私をうっとうしく思っている君。はしゃぎ回るパリス。コスタス船長の頼みで、海に飛び込むのは楽しかった。素敵な夏のひと時だ。心が満たされる。嫌なことも忘れてしまった。たとえば、友だちが傷ついたり、退屈な宿題をしなくちゃならなかったり、孤独を感じたり、将来に不安を持ったり、そんなときとは正反対の気分になった。

 こんなふうに心が満たされるのは、「いいこと(グッド)」だ。しかし、経済学でも「グッズ」という言葉を使う。店の棚に並んでいる品物や、アマゾンで売っているものや、テレビでしょっちゅう宣伝しているものも「グッズ」と呼ばれる。同じ言葉だが、意味はまったく違う。後者はむしろ「商品(コモディティ)」と呼ぶべきものだ。では、「グッズ」と「商品」はどう違うんだろう?

「高ければ高いほど売りたくなる」わけではない

 エギナ島の夕暮れ。パリスがはしゃぎ、私は海に飛び込む。そんな経験はおカネでは買えない。一方、「商品」は売るためにつくられたものだ。

 君が気づいているかどうかわからないが、グッズについてほとんどの人は勘違いしている。値段が高いほうがいいものだと思っている人は多い。しかも、支払ってもらえる金額が多ければ多いほど、人はそれを売りたくなるはずだと思い込んでいる人も多い。

 だが、そうではない。

 たしかに商品の場合はそうだ。消費者が高額でもiPadを手に入れたいと思えば、アップルはもっとiPadを生産する。レストランも同じで、値段が高くてもみんなが地元の名物料理を注文したがったら、レストランはその料理を目いっぱいつくろうとするだろう。

 でもパリスのお笑いは違う。おカネを払うからもっと面白いことを言ってくれとパリスに頼んだら、パリスは変に緊張してしまうに違いない。おカネをもらえると考えたとたん、面白いことが言えなくなってしまうかもしれない。

 コスタス船長の一件を考えてみよう。もし、おカネを払うから海に潜ってくれと頼まれていたら、喜んで潜っただろうか? 海に飛び込むことを楽しめただろうか?

 おカネを払うと言われたら、人助けの喜びや冒険のワクワク感がなくなってしまう。ちょっとばかりおカネをもらっても、失われたワクワク感の埋め合わせにはならない。

すべてを「値段」で測る人たち

 パリスが将来プロのコメディアンになったり、私がプロのダイバーだったら話は別だ。パリスのお笑いも私のダイビングも「商品」になる。

 商品とは、いくらかの金額で「売る」ものだ。それが商品であるなら、お笑いにもダイビングにも市場価格がつく。市場価格とは「交換価値」を反映したものだ。つまり、市場で何かを交換するときの価値を示しているのが市場価格だ。

 だが、売り物でない場合、お笑いにもダイビングにも、まったく別の種類の価値がある。「経験価値」と呼んでもいい。海に飛び込み、夕日を眺め、笑い合う。どれも経験として大きな価値がある。そんな経験はほかの何ものにも代えられない。

 経験価値と交換価値は、対極にある。それなのに、いまどきはどんなものも「商品」だと思われているし、すべてのものに値段がつくと思われている。世の中のすべてのものが交換価値で測れると思われているのだ。

 値段のつかないものや、売り物でないものは価値がないと思われ、逆に値段のつくものは人の欲しがるものだとされる。

 だがそれは勘違いだ。いい例が血液市場だろう。多くの国では、人々は無償で献血している。誰かの命を救いたいという善意から、献血するのだ。では、献血におカネを支払ったらどうなる?

 答えはもうわかるだろう。献血が有償の国では、無償の国よりもはるかに血液が集まりにくい。おカネにつられる献血者は少なく、逆におカネを支払うと善意の献血者はあまり来なくなる。

 グッズと商品の違いがわからない人は、どうしておカネを支払うと献血者が減るのかを理解できない。おカネを受け取りたくないから献血しない人がいることが、わからないのだ。

 でもここで、コスタス船長の一件を思い出すと、わかりやすくなる。夜の海に飛び込んでくれと船長に頼まれて、私は彼を助けたいという気持ちから、面倒だったが服を脱ぎ、暗くて冷たい海に飛び込んだ。もし「5ユーロ出すから海に飛び込んでくれ」と頼まれていたら、やらなかっただろう。

 献血も同じだ。献血者は人助けと思って献血する。だがそれに値段がつくと、人助けでなく商売になってしまう。ちょっとばかりおカネをもらっても、気持ちの埋め合わせにはならない。もちろん、時間もかかるし注射針は痛い。

「皮肉屋とは、すべてのものの値段を知っているが、どんなものの価値も知らない人間」だとオスカー・ワイルドは書いた。

 現代社会はわれわれを皮肉屋にしてしまう。世の中のすべてを交換価値でしか測れない経済学者こそ、まさに皮肉屋だ。彼らは経験の価値を軽んじ、あらゆるものは市場の基準で判断されると思っている。

(本原稿は『父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』からの抜粋です)