一般的に、二人の人が出会ったとき、彼らはお互いに、相手が自分をどう見るかを気にします。相手に認められたい、承認されたいと思います。

 認められたくて、自分がどれだけすごいのか、相手に証明しようとするのです。

 しかし、「私はこれだけすごいんだぞ」と言ってしまうと、それは同時に、相手の言う「自分はこれだけすごいんだぞ」を否定してしまうことになるのです。相手を否定すれば、相手も自分を否定するでしょう。

 ここに、水面下で生死を賭した闘いが起こります。

 闘いの末に一方が勝ち、「主人」となって、負けたほうは「奴隷」となります。

 これがいわゆる上下関係で、奴隷は主人に完全従属します。このとき初めて主人は、相手からの完璧な承認を得ることができるのです。

 ところが、その承認はすでに意味をなしません。なんだか「つまらなくなる」わけです。なぜなら、自分に従属している人から承認されても、価値がないからです。

手とり足とりのサービスだけでは
客を本当にはハッピーにできない

 同じことがサービスにおいても起こります。「サービスは闘いである」と言ったのは、人間関係の承認欲求のすれ違いの結果に起こる闘いと、まったく同じ経過をたどるからです。

「主人と奴隷の弁証法」から言えるのは、私たちが闘いを経てはじめて、自己を獲得しはじめるということ。ひいては、サービスにおいて客を否定する局面は、必ず必要だということです。

 お客が受け身でどーんと座っているところに、手とり足とりかゆいところをかくサービスをするだけでは、お客を本当の意味でハッピーにできません。

「お客さん自身がどう振る舞い、どういう客になろうと努めるか」という要素が、サービスにおいては非常に重要です。

 ですから、鮨屋のおやじは、「お飲み物はどうしましょうか」「何かお切りしますか」と聞くことで、サービスのあり方を突きつけます。

「ヒントを出さなくても難しい質問に答えられる客を相手にしているんですよ」

「われわれは、あなたが思っているよりも洗練されているんですよ」

 さらに、「で、そんな素晴らしいサービスに対して、あなたはどういう客になるつもり?」と言外に挑発しています。

 この水面下のメッセージを通して、おやじと客は対峙するわけです。

サービスとは何かを探求する講義は、さらに続きます。次回(5月10日公開)は、経済合理性とは本来相容れない「おもてなし」の価値について考えていきます。次回をお楽しみに。