1997年11月の拓銀、山一證券の破綻から2000年前後の大規模な公的出資(注3)が行われるまでの間が、金融危機の最も厳しかった時期であった。バブル崩壊による地価の下落に歯止めがかからず、不良債権は増加の一途をたどり、こうした中で貸し出しの引き当て、償却が多額に上り、自己資本は軒並み減少した。また預金は流出し、資金繰りが悪化した。預金流出については全国レベルで、大手銀行を含め、取り付けが広範化した。資金繰りの悪化は、外貨でも発生し、ジャパンプレミアムが拡大した。

 こうした状況の下で、金融機関は企業等に対し、貸し渋り(新規約定、既契約のロールオーバーを行わない)、貸し剥がし(期限前返済を求める)を行うなどクレジットクランチ(信用収縮)が激化した。このため、企業等も設備投資等の支出を抑制したことから、日本経済は長いデフレのトンネルに入っていった。

 前述の大規模な公的出資により、金融危機はようやくピークアウトした。その後、システミックリスクへの対応が図られたことで、金融システムの安全策が完成した(注4)。2003年2つの金融機関がその適用を受けた。具体的には、2003年5月りそな銀行の資本増強(公的出資)、同年11月足利銀行の特別公的管理(一時国有化)である。本件処理を最後に金融危機は終焉した。

 このように金融危機からの脱却の背景として公的資金の投入が挙げられるが、換言すれば公的資金の投入の遅れが金融危機を招いたのである。

(注3)1999年3月から2002年3月にかけて、早期健全化法に基づき32の金融機関に対し、8兆6053億円の公的出資が行われた。
(注4)2000年5月、預金保険法が改正され、システミックリスク(わが国または地域の信用秩序維持に極めて重大な支障が生じる惧れがある「危機的な事態」)に対応して、内閣総理大臣、内閣官房長官、内閣府特命担当大臣(金融担当)、金融庁長官、財務大臣、日本銀行総裁をメンバーとする「金融危機対応会議」は以下の例外的措置を講じることができることとなった。(預金保険法第102条第1項)。
 第1号措置 資本増強
 第2号措置 ペイオフコスト超の資金援助  
 第3号措置 特別危機管理