人工知能による追い討ち
――最高峰の頭脳が安価に手に入る

 この「問題解決能力の過剰供給」という問題にさらなる追い討ちをかけることになるのが人工知能の普及です。本書執筆時点から8年前の2011年、IBMの人工知能「ワトソン」が、米国の人気テレビ番組「ジェパディ!」に出演し、百戦錬磨のクイズ王と争って勝利しました。

クイズ番組で求められるのはまさに「正解を出す能力」ですから、すでに人工知能の「正解を出す能力」は、特定の領域においては最高水準の人間の知性をも凌駕しているということです。

 このような指摘に対して「ワトソンは非常に高価であり、費用対効果という点では人間に劣る」という反論があるかもしれません。なるほど確かに「コスト」は重要なポイントです。

 1965年に発表されたNASAの報告書には、宇宙船になぜ人間を乗せるのか、という批判への反論として「人間は非線形処理のできる最も安価な汎用コンピューターシステムであり、しかも重量は70キロ程度しかなく、非常に軽い」と記述しています。

 つまり「軽くて安くて性能がいい」という理由で、コンピューターよりも人間を宇宙船に乗せるという回答なのですが、このNASAの主張をひっくり返せば、つまり「軽くて安くて性能がいい」のであれば、別に人間であろうと人工知能であろうと、どちらでも構わないということでもあります。そして、今まさにやってきつつあるのが「人間より人工知能の方が安くて性能がいい」という時代です。

 1997年にチェスの世界チャンピオンに勝利したIBMのディープブルーは、その翌年、5倍程度に処理能力を増強されて一般向けに販売されました。このときの販売価格はおよそ100万ドル=1億円程度でしたが、今日、量販店で販売されている家庭用パソコンでも、メモリーやハードディスクを増強すれば同程度の計算能力を持たせることができます。

 つまり、たった20年で、1億円ほどした人工知能が家電量販店で購入できるようになったわけです(*4)。これが、いわゆる「ムーアの法則」の恐ろしさです。ムーアの法則については、すでに半導体素子の大きさが原子レベルにまで近づいていることから、近いうちに限界が訪れるだろうという意見もありますが、仮にこの法則が今後もしばらく継続するのだとすれば、どのような変化が起きるのでしょうか。

 ムーアの法則によれば、半導体の集積度合いは、18ヵ月ごとに2倍になりますから、2年後に2.52倍、5年後に10.08倍、10年後に101.6倍、20年後には1万321.3倍となります。ディープブルーという実例を引けば、1998年に1億円だったものが、20年後の2018年には数十万円にまで下がったわけですが、計算上は1億円の人工知能も、10年経てばその100分の1、つまり100万円で購入できることになります。

 ワトソンが「ジェパディ!」で優勝したのは今から8年前の2011年のことです。仮に当時のワトソンの価格が1億円だったとして、ムーアの法則を当てはめて考えてみれば、同等の性能の人工知能が100万円で購入できる時代がすぐそこまできつつある、ということです。

 日本の法定最低賃金は年換算で200万円前後です。この費用の半分で、特定領域に限って最高峰の頭脳が手に入ると考えれば、そのインパクトの大きさが想像できるのではないでしょうか。

 人間を雇うよりもはるかに安い費用で、最高峰の人間の「問題解決能力」と同等以上の能力が手に入るのです。しかも、この頭脳は1日24時間のあいだ働き続けることができ、動機付けに昇進させてやる必要もなく、有給休暇を求めてくることもありません。

 情け容赦なく人間の従業員を切り捨て、人工知能へと切り替えることには多くの経営者が抵抗感を覚えるとは思いますが、一方で個別企業は熾烈な市場競争にさらされているわけですから、生産性向上の手綱を緩めることは許されません。

 このような状況が実現すれば「正解を出す能力」は極端な過剰供給状態となり、人間の持っている「正解を出す能力」にはほとんど価値が認められなくなります。このような時代にあってなお、いまだに偏差値に代表されるような「正解を出す能力」にこだわるのは典型的なオールドタイプの思考様式と言えます。

「問題の希少化」を招いたのは構想力の衰えオールドタイプが「与えられた問題を解く」ことに長けている一方で、ニュータイプはまだ誰も気づいていない問題を見出し、それを社会に向けて提起します。なぜ、ニュータイプは誰も気づいていない「問題」を見出すことができるのでしょうか。

 この論点を考察するにあたって、そもそも「問題とは何か」という点について考えてみましょう。問題解決の世界では、「問題」を「望ましい状態と現在の状況が一致していない状況」と定義します。「望ましい状態」と「現在の状態」に「差分」があること、これを「問題」として確定するということです。

 したがって「望ましい状態」が定義できない場合、そもそも問題を明確に定義することもできないということになります。つまり「ありたい姿」を明確に描くことができない主体には、問題を定義することができない、ということです。

「問題の希少化」という「問題」の本質はここにあります。「問題の不足」と聞けば、なんらかの確定的に定義できる「問題」自体が不足しているように思うかもしれませんが、これはそんなに単純な問題ではありません。

「問題の不足」という状況は、そもそも私たち自身が「世界はこうあるべきではないか」あるいは「人間はこうであるべきではないか」ということを考える構想力の衰えが招いている、ということなのです。

 私たちは「ありたい姿」のことをビジョンと表現しますが、つまり「問題が足りない」というのは「ビジョンが不足している」というのと同じことなのです。

 これは企業経営にしても国家運営にしても地域コミュニティの存続にしても同様です。取り組むべき問題=アジェンダの明確化は国の、あるいは企業の、あるいは地域コミュニティの「あるべき姿=ビジョン」が明確になって初めて可能になります。問題を生み出すことができないというのは、要するに「あるべき姿=ビジョン」が不足している、ということなのです。

 これを言い換えればつまり、ニュータイプとは、常に自分なりの「あるべき理想像」を思い描いている人のことだということになります。ニュータイプは、自分なりの理想像を構想することで、目の前の現実とそのような構想とを見比べ、そこにギャップを見出すことで問題を発見していくのです。

(注)
*4 もちろん、これはハードのコストに関する単純計算であり、ディープブルーに搭載されたソフト=プログラムの開発コストに関しては別ということになる。しかし、いずれにせよ「破壊的な低価格」であることに変わりはない。なぜならプログラムはまさに限界費用ゼロで追加生産が可能だからだ。仮に開発に100億円かかったとしても、これを100万台のコンピューターに搭載すれば一台あたりのコストは1万円にしかならない。