アダムが食べた「知恵の実」の正体

 あ、それ、子どもの頃、思ったことがある。アダムが知恵の実を食べた結果、人間は「労働しなければならない」「死ななければならない」という罰を背負うことになったという話を幼稚園で聞いたけど、それってアダムが悪いだけで僕たちには関係ないよなって思ったのだ。

 でも、そこで『人間』という、僕たちをひと括りにできる概念が実在しているとすれば、全員の罰とすることが理屈上は可能となるわけか。いや、もちろん、それでも納得はいかないけども。

「一方、では実在論に従って考えればいいかというとそうでもなく、『人間』という普遍的なものが実在すると言ってしまうと、今度は神さまが『人間』を救済すれば、それだけで、全人類、つまり悪人も不信心者も異教徒も、全員が芋づる式に救われてしまい、宗教組織的にはマズいことになる」

「とまあ、そんなふうに、この時代は概念の実在性について、唯名論と実在論というふたつの立場で、まさに神学論争を繰り広げていたわけだ」

「さて、普遍論争がどういうものかわかったところで、もう一度、今度は善の概念を使って、今の思想対立を説明し直してみよう。まず、唯名論、この考え方に従うなら、善とはただの名前にすぎないものになる。つまり、人間という生物の行動のうち、たとえば社会の利益になるものを誰かが『ぜ・ん』と名づけただけのことであって、善とはそれ以上でもそれ以下でもないという話だ」

 さすが、唯の名前だよ論、身も蓋もなさすぎである。

「次は実在論。この考え方に従うなら、絶対的に正しいと断言できる普遍的な善が、この世のどこかに実在していることになる。もちろん、その証明は誰にもできないがね」

 これはほんと聞けば聞くほど、イデア論だな。

「ああ、そうそう、善の話で思い出したが、アダムが食べたという『知恵の実』、あれは本当は『善悪の実』と呼ばれていてそれが正式名称なのだが、善悪を知ることが知恵を得ることなのだという構図は、なかなか意味深な話だと言えるね」

次回に続く