これが、神の存在証明

「デカルトは次の合理的な思索で神の存在を証明できると主張した。

 1. 人間は『不完全』な存在である。ゆえに、『不完全』な認識しか持たず、『不完全なもの』しか知りえない。
 2. しかし、人間は『神』という概念を知っている。不完全な人間が、完全な存在である神を知っているのはおかしい。
 3. この矛盾を解決するには、人間は神から『神の存在』を何らかの方法で教えてもらったと考えるしかなく、ゆえに、神は存在する。
 
以上だ。

 …………いや、全然わからん。

「ようは、『本来、知りえないものをなぜか人間は知っている。それはおかしい。だから理屈を超えた何かが存在しないと説明がつかない』というロジックであるわけだが、なかなかピンとこない人は、先に話した『枠』と『善』の関係をもう一度思い出してほしい」

 先生は黒板の隅に、再び例の丸い枠を描く。
「人間が考えられる範囲、経験できる範囲をこの枠で表したとしよう。人間は、もちろん、有限の存在であり、有限の認識力しかないのだから、完全な善を知ることもできなければ経験することもできない。しかし、人間は完全な善があることを知っている。『これこそが完全な善だ』と具体的には言えなくても、少なくとも完全な善を『概念』としては知っている。ならば、その完全な善の『概念』はどこから来たのか?」

 そう言って先生は、枠の外側に「善」という文字を書く。
「それはもちろん、認識の外側、経験の外側からである。そうでなければ、このことは説明できない。ということは、やはり絶対的で完全な善は『存在する』のである。しかもそれは、人間の認識や、個人の経験から独立した、この枠の外側においてだ」

 神の存在証明から形を変えた……善の存在証明?

 神さまのときよりは身近にはなったけども、でも、その通りだとはまったく思えない。なんだろう。最初聞いたとき、合理主義は合理的に考えることを推奨してるのだから、誰もが納得することを理詰めで語る、現実的な人たちの思想かと思いきや、予想と全然違った。結局のところ、「真理」「善」「正義」を求めてしまうと、人間はどうしても人智を超えたものを信じるような考え方になってしまうということなのだろうか。

 と、そのとき、僕は黒板のある文字を見て、「あ!」と思った。先生が引いた縦線の左側にある文字―絶対主義。そういうことか! 結局すべて同じで、そこですべてが分けられるのか!

次回に続く