哲学史2500年の結論! ソクラテス、ベンサム、ニーチェ、ロールズ、フーコーetc。人類誕生から続く「正義」を巡る論争の決着とは? 哲学家、飲茶の最新刊『正義の教室 善く生きるための哲学入門』の第7章のダイジェスト版を公開します。


 本書の舞台は、いじめによる生徒の自殺をきっかけに、学校中に監視カメラを設置することになった私立高校。平穏な日々が訪れた一方で、「プライバシーの侵害では」と撤廃を求める声があがり、生徒会長の「正義(まさよし)」は、「正義とは何か?」について考え始めます……。

 物語には、「平等」「自由」そして「宗教」という、異なる正義を持つ3人の女子高生(生徒会メンバー)が登場。交錯する「正義」。ゆずれない信念。トラウマとの闘い。個性豊かな彼女たちとのかけ合いをとおして、正義(まさよし)が最後に導き出す答えとは!?

合理主義者のデカルトが「神」を哲学したら?

「経験主義」VS「合理主義」

前回記事『キリスト教を脅かす「唯名論」とは?』の続きです。

「さて、中世から近代と呼ばれる時代に変わる頃、今から500年くらい前の話だが、今度は、経験主義と合理主義という新しい対立が始まる」

「まず経験主義。これは『人間が思い浮かべられる概念はすべて、経験から作られたものであって、それ以上でもそれ以下でもない』という考え方のことであるが、たとえば、『馬』という概念は、『馬の絵を見る』などの『経験』をたくさん繰り返すうちに形作られたものだと考える」

 まあ、当たり前と言えば当たり前の話だよな。だって、馬を見たことがない人、つまり、馬を見るという「経験」をしたことがない人が、「馬という概念」―4本足で顔が長い動物が馬だというイメージ―を持てるはずがないわけだし。

「これはとても単純な話だから、同意する人も多いだろう。では、『善』という概念についてはどうだろうか? 経験主義の立場に従うならば、子どもの頃に『親が喜ぶことをすると褒められた』という経験がまずあり、その経験を繰り返すうちに『これが善いことなんだ』という『善い』の概念が段々と形作られたということになる。つまり、経験主義的には『善』の概念なんて、『馬』や『犬』と同じ。単なる経験の積み重ねから発生したものであって、決して特別なものではないのである」

 身も蓋もないところも含めて、唯名論と似ているな。

「一方、合理主義は、『合理的に理性を働かせれば、人間は絶対的な正しさに到達できる』という考え方のことである。これは一見すると、理屈を重視する現実的な主義に思えるかもしれないが、実際には『真理』『絶対的に正しい何か』が世界のどこかに存在するというロマンを信仰しており、経験主義と対立する考え方だと言える。そのことは、合理主義の祖である哲学者デカルトが主張した『神の存在証明』の話を聞けばよくわかると思う」

 え、神の……存在証明? 神が存在することを証明できたということ? どうやって?