父は言いました。「『Boys&Girls』みたいなアルバムは5年に一回にしろ」。
――さてさっきの「Poignant Kisses」も収録される9月4日発売の新譜のタイトルですが、これもすでに「Hmmm」と発表されていますね。なんと読むのですか。
大江 フーム。(腕を組み、首をかしげる)。なるほど、人生はタフだけれど、時にはポーズを押して深呼吸して、フームと弱音を漏らす時間が必要で、そんな時に無性に聴いてほしい音楽って意味です。
ちょっと長くなるけれど、父の話をしていいですか…。
――もちろんです。
5月の頭、博多から始まったブルーノートのツアーの前に、父の容態が悪いということを知りました。初日の前に4日間、大阪の実家に寄って一緒にいたのだけれど、とてもドラマティックな時間でした。父を緩和ケアから自宅ケアに戻しました。
妹と僕とで息抜きに少しご飯を食べに外に出て、一人で僕が戻ってきたところでした。親父が廊下で倒れていて呻いていました。僕は普段離れている分、こういう時に咄嗟にどうしたらいいのかわからず一瞬パニックになりそうでしたが、しっかりしなくてはと思って父を起こそうとしました。でも170センチの男の人を抱えてベッドに戻るのは本当に大変でした。ライブの初日前なので、このままだと僕の肩も腰もやられてしまう、だから、父に壁に手をかけてもらい二人三脚でベッドに随分時間をかけながら戻ったのです。
――私は5月のブルーノート東京の最終日を拝見していました。そんなつらい時期の真っ最中だったのですね。
大江 父は20年ほど前に下咽頭がんの手術をしてから、拡声装置を首に当ててしゃべっていました。
僕が何とかベッドに寝かしつけた後にやってきたヘルパーさんに「息子に申し訳ないことをしました。感謝しています」と話すのです、僕の顔を見ないで。不思議な父と息子の距離感でした。日本とニューヨークで普段は離れていてなかなか僕ができない親孝行を、この時に凝縮して父にさせてもらえたのかなと思いました。
――その4日間にお父様といろんな話ができましたか。
大江 はい。新聞記者だった父からは仕事上のヒントをいつも学んできました。
僕の音楽に関してもいつも忌憚ない意見を言うのだけれど、今回は『Boys & Girls 』が日本でヒットしたので、その報告をすると、良かったな!と労ってくれました。「しかし、お前、こういう企画アルバムは5年に1回くらいじゃないと飽きられるぞ。ほどほどにしろよ」って(笑)。
――ポップス時代の名曲をジャズアレンジされてヒットしましたね。
大江 「そんなにしょっちゅうやらないから大丈夫だよ。全米ジャズラジオのチャートで上位まで上がったんだよ」と言ったら、「イエーイ」と喜んでくれていたんです。実家を後にし、博多の初日へ向かいました。博多、名古屋、大阪、そしてブルーノート東京を6セットやって、ブルーノートハワイで2セットをやって、やっとニューヨークへ戻ったとき、僕が地下鉄に乗っていたんですね。不意に妹からLineが来て、携帯の画面で父の顔を見たとき「ああ、これはこの間見た父の顔じゃない」と心がざわついたんです。