筆者は元々、演劇を含む文学を研究していたが、7年位前から、演出・脚本家に理論面からアドバイスするドラマトゥルクという仕事をしている。

 自分で役者として前衛劇に出ていた経験もあるので、普通の学者よりは、この方面での実務的な問題を心得ているつもりだ。

 公的な空間で展示に適さない、あるいは一定の制約がある作品があることは、行政サイドや施設スタッフだけでなく、製作側もある程度、わかっているはずのことだ。

 まず、性や暴力に関する露骨な描写のある作品や、特定の個人や集団を誹謗する作品は、展示に適さないということで、ひっかかる恐れがある。

 名誉や人権を傷つけるようなメッセージを含むものが出品されれば、どんな著名な芸術家の作品であろうと、待ったがかかって当然だろう。

 韓国人や中国人の民族性をバカにするような表現を含んだものであれば、不自由展を擁護している人たちがほぼ全員反対に回るだろう。

 思想や信仰の自由は保障されていても、特定の政党や新興宗教に由来するオブジェを作品化したようなものも、公的機関が特定の政党や宗教を支援しているかのように受け取られかねず、問題になるだろう。

 また火炎噴射するなど物理的に危険な作品や、バンクシーのようなストリートアーティストに公共施設だろうと個人の住宅だろうと自由に絵やグラフィックを描かせるとか、公共建造物を長期間にわたってパッキングするなどのイベントは、関係部署との協議、地域住民との合意形成が前提条件になるだろう。

 現代アートは表現手段がどんどん多様化しており、その方面のプロでも予想していなかったような問題が絡んでくるものが少なくない。個別の作品の選定はプロに基本的に任せるにしても、やっていいことの限界は、政治や行政が大まかに決めておくしかない。

 また予想しなかった問題が出てきて、個別の作品の是非について政治的な判断が必要な場合もあるだろうが、「表現の自由」があるから、政治や行政が作品の内容に関わってはならないという形式論で、現場に丸投げすれば、今回のような問題が噴出することになる。

 このことは、製作者や表現者も気を付けるべきことだ。

 前衛的な創作活動をする芸術家には、社会的なタブーに挑戦したいという欲望を持つ人が多い。

 例えば、カフカの小説『流刑地にて』に、囚人の身体に犯した罪と判決文を彫り込み、自分の罪を忘れないようにさせる拷問機械が出てくる。

 普通の感覚の人にはわかりにくいだろうが、そうした極限状態の身体に関心を持ち、実際どうなるか見てみたい、という誘惑に駆られるアーティストは少なくない。しかし、実際に作ったら、社会的に非難され、へたをすれば発表の機会を永遠に失いかねない。前衛芸術にはそういうリスクが伴う。