確かに、田辺三菱にとっては、いまや三菱ケミカルHDの完全子会社になること以外に激動の製薬業界を生き延びる選択肢は残されていなかった。

 足元では、スイス製薬大手ノバルティスからのロイヤリティ収入を巡って係争が勃発し、仲裁手続きが進行中。そのため、一部のロイヤリティ収入を売上収益に計上することができず、19年3月期、20年3月期上半期と減収減益が続く。

 おまけに特許が切れた新薬(いわゆる長期収載品)の割合が高く、「革新的な新薬のみ評価する」傾向を強める薬価制度下では、今後も引き下げ影響をまともに食らう可能性が高い。かといって海外の自社展開が他社に比べて進んでいるわけでもなく、先行きにも暗雲が立ち込めていた。

 一方で、将来の飯のタネを確保するには新薬開発の手を緩めるわけにいかない。実際に、研究開発費比率は年々高まって20年3月期は22.7%(予想)と、高水準を保たざるを得ない状況が続いている。

 この持ち出しばかりが増える事態に、短期的な利益還元を望む少数株主の不満をぬぐうことができず、田辺三菱は頭を抱えていた。

 もっとも、いくら困っていたからといって、これが田辺製薬と三菱ウェルファーマが合併した2007年当時であれば、製薬会社として世界で2番目に古い“名門田辺”が、三菱への完全軍門入りを許さなかったかもしれない。

 ただ、14年には三菱化成工業(現三菱ケミカル)出身の三津家正之氏が社長に就き、17年には三津家社長就任と同時に会長職に就いた土屋裕弘氏が相談役に退いていた。社内取締役の数のバランスは「旧田辺出身者:三菱グループ出身者=3人:3人」を維持したものの、経営陣の“三菱色”は確実に強まっていた。

 事業面でも、低分子化合物で稼げる時代はとうの昔に終わり、事業拡大には新たな知見とさらなる資金が必要になっていた。

 2000年代ならば規模や有望な開発品を求めて、さらなる競合との合併があり得た。だが現在、国内同士の合併は「統合作業の苦労など経営停滞のデメリットを超える統合効果が得られないことが、2000年代に皆よく分かったので考えにくい」(某アナリスト)。

 海外大手との合併も、2000年代とは異なり日本販路を開拓済みの海外大手にメリットがない。はたまた武田薬品工業のように有望他社を買収しようにも、M&A(企業の買収・合併)市場の“出物”の相場は高騰の一途を辿っている。中堅に過ぎない田辺三菱が、現在の局面をドラスティックに変えられるほどの買収に成功するとは考えにくい。