直立二足歩行の致命的な欠点

 あなたは草原にいる。遠くからライオンが走ってくる。あなたは恐怖に震え、絶望するに違いない。ついに私の人生もここで終わるのか、と。

 でも、もしもあなたがライオンより速く走れたら、どうだろう。ひょっとしたら、しばらくのあいだ、あなたはライオンのことを眺める余裕があるかもしれない。「おお、走ってくる、走ってくる。すごい牙をしてるなあ」とかいいながら。それからおもむろに、あなたは走り出す。ライオンの方に向かってだ。そして、ライオンがあなたに噛みつこうとすると、ひょいと体をかわす。そうしてライオンをおちょくってから、あなたは悠々と逃げていく。

 でも残念ながら、実際にはこうはいかない。多分、あなたは、ライオンに捕まってしまうだろう。

 ヒトは多くの動物に対して、強烈な劣等感を持っている。それは、走るのが遅いからだ。直立二足歩行の最大の欠点は、走るのが遅いことなのだ。これは、自然界で生きていくには致命的な欠点だ。

 ヒトの100メートル走の世界記録は、2009年にウサイン・ボルトが出した9秒58である。将来、ヒトはこの記録を大幅に短縮し、ついには9秒を切る日が来るかもしれない、という意見がある。ただし、それはヒトが四つ足で走れば、の話だ。

 ヒトの四足走行100メートルのギネス世界記録(そういうものがあるのだ)は、2008年には18秒58だったが、2015年には15秒71にまで短縮された。7年で3秒も短縮されたということは、まだ四足歩行についてはフォームなどの研究が進んでいないことを示している。ということは、これからまだまだ記録が短縮されるということだ。そして、この調子で記録が短縮されていけば、ついには9秒を切る可能性があるというのである。ちなみに、現在の世界記録保持者は日本人の、いとうけんいち、である。

 将来、ヒトが四足歩行で100メートルを9秒以内で走れるようになるかどうかは、わからない。しかし、ヒトが四足歩行でもかなり速く走れることは確かだろう。ヒトのように、直立二足歩行に適応した体を持つ生物でさえ、四足歩行でこんなに速く走れるのだ。

 やっぱり速く走るためには、四足歩行が適しており、直立二足歩行は適していないのだ。ひょっとしたら、初期の人類は、そもそも走ることすらできなかったかもしれない。足の指が長いので走りにくかっただろうし、走るときに使うお尻の筋肉(大臀筋)も発達していなかったからだ。

 初期の人類は、歩くときには直立二足歩行をしたが、走るときには相変わらず四つ足だった可能性もある。もっとも、初期の人類が四つ足で走っていた証拠はないので、これは想像にすぎないけれど。

 ちなみに、草原にすんでいるヒヒやパタスモンキーは、霊長類の中でも非常に走るのが速い。そうでないと、草原では生きていけないのだろう。

(本原稿は『若い読者に贈る美しい生物学講義』からの抜粋です)