前回の記事「アトピー性皮膚炎の患者はなぜ、「民間療法」に傾いていくのか?」における、「アトピー患者が医学的根拠に乏しい治療法に向かう原因の1つが、実は標準治療に携わる医者の側にあるのではないか?」という問題提起に対し、非常に多くの反響が寄せられた。
本記事では、前回の記事を受ける形で、医者と患者のディスコミュニケーションを生む「医者側の問題点」を扱う。新刊『世界最高のエビデンスでやさしく伝える 最新医学で一番正しい アトピーの治し方』を上梓した京都大学医学部特定准教授・皮膚科専門医の大塚篤司氏が、自らの経験を元にお伝えしていく。(構成:編集部/今野良介)
ぼくが苦手な医者「2つのタイプ」
患者さんは誰でも、良い医者にかかりたいと思って、良い医者を探す。当然だ。
しかし、「良い医者」の定義は難しい。「腕が良くてやさしい医者」は一般的に良い医者だろうが、「やさしい」という言葉も、人によってとらえ方が違う。物事を正直にストレートに伝える医者をやさしいと思う人もいれば、オブラートに包んでぼんやり話す医者をやさしいと思う人もいる。だから、医者と患者の関係は、基本的には相性だとぼくは思っている。
それでも、多くの人が共通して「苦手だ」と感じる医者がいる。そして、ぼくにも、苦手な医者たちがいる。自分が患者になったとき「この人にこそ診てもらいたい」と思う医者と「この人には診てもらいたくない」と思う医者がいる。ぼく個人の意見として「この人には診てもらいたくない医者」は、大きく2つの種類に分けられる。
「偉そうにしている医者」と「空気が読めない医者」だ。
どちらの医者も、人の気持ちを考えていない、病気をあくまでも他人事と思っている医者だ。もう少し詳しく書く。
「自分は偉い」と勘違いしている医者
「偉そうにしている医者」にも2パターンある。「周りからちやほやされ続けて自分は偉いと本当に勘違いしている医者」と「忙しすぎて患者さんにやさしく接する余裕がない医者」だ。
勘違いしている前者のタイプは、地位の高い医者に多い。ぼく自身も「准教授」という肩書きがつくため、気がつかないうちに偉そうに振るまっている危険性がある。
たとえば、飲み会で一緒の席になった若手医師と世間話をする。この時、若手は間違いなく本心を語らない。優秀な人ほど、ぼくに合わせようとする。その結果、ぼくは気を遣われて楽しい思いをする。あまりにも年が離れた相手と、心から楽しい時間を過ごせたと思うことがあれば、それは相手の気遣いにまったく気がついていない証拠である。
医者の世界には「年功序列」が残っている組織がある。若手の医師はキャリアが上の医者に気を遣うから、若手の言葉を鵜呑みにして仕事を続けると裸の王様になる。若手医師だけではなく、病院にいるすべての人間が、少なからず医者に気を遣う。医者に面と向かって苦言を呈する人間は、残念ながらまだまだ少ない。よっぽど注意していないと、医者が「自分は偉いのだ」と勘違いしてしまうシステムが残っているのだ。
一方、忙しすぎて、患者さんにやさしくする余裕が持てない医者も多い。医者には当直業務がある。もちろん皮膚科医にも当直はある。日常診療が終わり、そのまま病院に残り急患に対応する。患者さんが多くて一睡もできなくとも、次の日は通常勤務に就く。
ぼくも20代の頃、当直で一睡もしていない状態で外来を担当し、そのまま夕方の緊急手術に入って36時間ぶっ続けて働いたことが何度もある。そんなクタクタの状態で患者さんに心からやさしくできるかというと、正直なところ、難しい。「とにかく自分が休みたい」という気持ちが勝ってしまう。
患者さんのほうはといえば、体調が悪かったり不安をかかえて病院を訪れるのだから、心に余裕はなくて当然だ。「ああ、この先生は疲れているようだから、機嫌悪くてもしょうがないな」と思える患者さんが、どれくらいいるだろうか。
そんな、互いに追い詰められた精神状態で向き合う診察室で信頼関係が生まれないのは、容易に想像がつくはずだ。
空気が読めない医者
「空気が読めない」というのは抽象的な言葉だが、ここでは「人の気持ちを汲み取るのが苦手な医者」という意味だ。空気が読めない医者は、想像以上に多い。
現代の受験システムを踏まえれば、医者になるための最大の条件は「勉強ができること」である。医者になる者の多くが、学生時代にエリートであった者だ。「勉強ができる」とはどういうことか。それは「暗記が得意」であり「読解力がある」であり「論理的な思考ができる」ことである。
「人の心の動きに敏感であること」は、まったく求められていない。
そこで、医学部には、患者さんの気持ちを少しでも理解できるように、趣向を凝らした授業がある。たとえば、自分が患者役になってベッドに横たわり、そこに医者役の学生が現れる。医者役が立ったままポケットに手を入れて話しかけてくるパターンと、ベッドの横に腰掛け目線の高さを合わせて語りかけてくるパターンを体験し、どちらが患者として不安が和らぐか、実際に経験する授業だ。
患者からすると、ベッドから医者を見上げる形で話をするのは、少し萎縮するものだ。実際に患者の立場を体験することで、どうすれば安心して話を聞いてもらえるかを、医者が理解するための授業である。
……と、そう思っていた。誰もが同じように、患者さんの気持ちを感じられる授業だと思っていた。しかし、どうもそうではないらしい。一部の医学生は、この授業の意味が理解できない。患者役として、ベッドに横たわっている状態から立ちっぱなしの医者を見ても、不安にならない。むしろ、ベッドの横に腰掛け目線の高さを合わせることに違和感を覚える者がいる。「医者は次から次へ患者さんを巡回するのだから、立ちっぱなしで会話をするほうが効率的だ」と言う者がいる。感情ではなく合理性を重視し「理屈が通る行動」を選んでいるのだと思う。
こういう医学生に「どう感じた?」という質問は意味をなさない。その代わりに「目線の高さを合わせて会話するほうが安心する患者さんが多いから、そうしてください」と、具体的に指導しなければならない。このようにして、人間の微妙な気持ちの揺れ動きや変化を察知できず、すべてを「自分の中で理屈が通っているかどうか」で判断し行動をとってしまう医者が、一定数いる。
軽い風邪のように、放っておいても1週間で治るような病気であれば、こういった医者がいても、患者さんは困ることはないかもしれない。しかし、本書で解説しているアトピーのような慢性の経過をたどりやすい病気や、がんのような命に関わる病気においては、相手の気持ちを汲み取ろうとしない医者は、患者さんを深く傷つける危険性が高い。
次回は、「なぜ、ニセ医学をすすめる医者がいるのか?」について、ぼくの考えをお伝えする。