犬は世界を
どのようにとらえているのか
私たちは通常、環世界を現実世界そのものだと信じ、それ以上のことは考えようとしない。
自分の環世界の外にどれほどの世界が広がっているか、環世界がどれほど狭いか、それを知るために自分がもし犬だったらと想像してみよう。
あなたの鼻には、約2億の嗅覚受容体がある。湿った鼻腔では、におい分子を引きつけ、捕まえる。においを嗅ぐと、鼻腔の端のスリットが大きく広がり、その分、多くの空気が通り抜ける。垂れた耳が地面につくくらいに姿勢を低くして、あなたは、におい分子を鼻のなかに取り入れる。あなたにとっての世界は、かなりの部分が嗅覚の作りあげた世界である。
ある日の午後、飼い主に連れられての散歩中、あなたは、あることに気づいて立ち止まる。そういえば、人間になったらどういう気分なのだろうと思ったのだ。
人間の鼻は自分たち犬に比べれば、かわいそうなほど貧弱なものだ。あんな貧弱な鼻で空気を吸い込んだからって、外の世界の何がわかるというのだろう。においの分子が鼻の穴から入ったとしても、果たしてそれはどこに行くのだろうか。あまり意味がないのではないか。
もちろん、皆、よく知っているとおり、私たち人間は、においの不足に悩んだりはしていない。誰もが自分に提示された現実を真の世界だと信じているからだ。犬のような強力な嗅覚はないが、犬の嗅覚があれば世界は変わるかもしれないなどとはめったに考えない。
特に子どもは、たとえばミツバチには紫外線が見える、ガラガラヘビには赤外線が見えるといったことを学校で習うまで、自分たちの感覚で受け取れない情報が世界にあふれているなどとは一切考えない。
「環世界」の概念を知れば
謙虚な姿勢を保ち続けられる
私の私的な調査ではあるが、電磁スペクトルのうちで、私たちに見える部分が全体の10兆分の1に満たないという事実は一般の人にはほとんど知られていない。
人間が環世界の限界にいかに無頓着かは、色覚多様性の人たちを考えればよくわかる。自分に見えない色を見ている人が大勢いると教わらない限り、そんな色がこの世界に存在するなど想像もしない。
同様のことは先天的に盲目の人にも言える。盲目の人にとって見えないという状況は、晴眼者が突如、暗闇あるいは暗い穴に押し込まれたときの感覚とはまったく違う。
科学が発達するほど、真の現実世界のうち、私たちの感覚でとらえられていると思える部分の割合が小さくなっていく。私たちの感覚の能力は、自分の生態系のなかで生きていくのには十分なものである。しかし、その感覚が描き出す世界は、真の世界の概観にすらなっていないことは理解すべきだろう。
環世界という言葉、概念が一般の人々の間にも広まれば、おそらくあらゆる人にとって利益になるだろう。この世界には入手のできない情報があり、想像もつかない可能性があることを誰もが意識するようになるからだ。
私たちは毎日のように誰かの意見、あるいはその意見に対する批判を耳にする。環世界という概念が頭にあれば、まず、意見を言う人、批判する人がどの程度、自分が入手できない情報の多さ、見ることのできない世界の広さを意識し、謙虚な姿勢を保っているかを見ようとするだろう。その謙虚さのない人の言うことはまず聴くに値しない。