「排除」するのではなく、「受容」してみる
――人間も自然の一部だから、ウイルスとともにどう生きるか、ということですね。
高知県の四万十川には、「沈下橋」という橋があります。豪雨の時は、増水した川の流れに逆わず沈むことで、壊れることなく自然と共存している。僕はあの発想だと思ったんですよね。立ち向かうのではなく、やり過ごすほうがいいのではないかと。
アメリカのハーバード大学の研究者も、コロナによる外出自粛は2022年まで断続的に長引く可能性があるという予測を出しました。ワクチンの開発にも、まだ時間がかかります。外出自粛が緩和されても、流行を繰り返すかもしれない。新興感染症は温暖化で今後も増えていくでしょう。そう考えると、ウイルスを防御する“壁”を強固にするよりも、ウイルスがまん延する兆候が見えたら、一斉に全国各地に人口を分散させて、やり過ごす。そのためには、平時から都会の人も2つの地域を行き来しながら、複線的に生きることができれば、いざという時にスムーズです。そういうライフスタイルに変わっていくことが新興感染症に対する備えにもなります。
ちなみに僕のふるさとの岩手県は、いまだにコロナの感染者がゼロです。3つの「密」は感染リスクが高いと指摘されていますが、岩手県は面積が広くて、人口密度も少ないから、濃厚接触のしようがない。過密と過疎はコインの裏表ですからね。立ち向かうのではなく、やり過ごすことです。
――コロナでさまざまな「分断」がさらに進みかねない可能性もあります。「関係人口」を提唱してこられた高橋さんはどう思いますか?
感染爆発を避けるために、一時的な移動制限や「分断」は必要だと思います。ウイルスがどこかの国で残っていると、再び拡散されますからね。今は世界中で人やモノの移動が制限されていて、どの国もほぼ鎖国状態。日本でも東京から地方に行くことがタブー視されるなど、さまざまな壁が生じています。だからこそ、問われるのが「連帯」です。自分の国だけ、地方だけ、岩手県だけというのはありえない。世界各国、都市と地方、人間と自然がみんなでつながって、折り合いをつけていくこと。絶対にケンカしちゃダメです。物理的には交われなくても、連帯が大切だと思います。
自分の世界に異質なものが突然やってきた時、まずは認めて許すこと。それが大事ですね。人に対してもそうです。自分にはないものを持っているわけだから。そのよさに目を向けて、お互いにリスペクトして受け入れる。異質であることを認めて許す。そうすると新しい世界が開け、自分の新しい可能性にも気づく。今の社会は認めないし、許容しないじゃないですか? でも、異質な世界に出会った時、人はハッと気づく。自分がどこかに置き忘れた大切なものを問い直すきっかけにもなるんです。結局、すべてはつながっている。そのつながりをいかに社会や暮らしに取り込めるかで、生きることの意味が問われるのだと思います。