業務区に入るのは、報道機関の支社やプレスセンター、各自治体の事務所、研究調査機関、民間企業のオフィスや支店分室で、またそれらと同時にホテル、飲食店、コンビニなどのサービス業も入ることになる。

 外交文化区は各国大使館、国際センターや文化施設が入る場所だ。こうした区分けは、警備上からも重要だった。東京のように国賓が来日するたびに全域で警備体制を敷く必要がなくなり、通常業務も阻害されることがなくなる。

 そしてこれら全体の周囲に配置されるのが、居住地区である。まず最初に公邸や議員宿舎、公務員宿舎が建設される。

「省庁の移転作業は、1週間もあれば充分だろう。2001年の省庁再編も、年末年始の約1週間で作業を終えている。書類を必要なものと廃棄するものとで事前にきちんと分けておけば、後は順次運ぶだけだ。もちろん、霞ヶ関の中で移動するより、東京から岡山へ運ぶ方が手間はかかるが、大きな問題ではない」

 移転作業中の郵便物は、郵便局や宅配業者の集荷センターに留め置きされる。もちろん、直接窓口での届け出もその間は中止となる。そして優先度の低い書類から、移転作業実施よりも前から順次、新庁舎へ運びこんでおく。前の省庁再編では、年明けから新しい省庁でとどこおりなく日常業務が再開された。

 電子申請システムはその間も変わりなく稼働している。ただし受け取る省庁側が作業完了までは受理できないため、決裁されるまで普段より時間がかかるという問題はある。

 2ヵ月後には新首都構想は、かなり詳細な部分まで含めて大部分が出そろっていた。

 各業種ごとに幹事会社を決めて業界の取りまとめを行なった。

 森嶋は村津の右腕として、全体に目を配っていた。

 まさに、日本が一体になった取り組みだった。

 この首都移転プログラムに加わった企業は、大小含めて2000社を超した。

 森嶋は連日の激務のため、マンションには寝るために帰るという日をすごしていた。