雑草を食べて空腹を満たした「元祖草食男子」

【宗次徳二×山下誠司】<br />「丁寧な掃除」が「丁寧な仕事」を引き出す
宗次德二(むねつぐ・とくじ)
1948年石川県生まれ。愛知県立小牧高等学校卒業後、八洲開発株式会社を経て1970年大和ハウス工業株式会社に入社。1972年に結婚、翌年独立して岩倉沿線土地を開業する。1974年喫茶店「バッカス」を開店。1978年カレーハウスCoco壱番屋を創業し、妻とふたり客商売を天職と定める。1982年株式会社壱番屋設立し、代表取締役社長に就任。1998年同社代表取締役会長に、2002年には引退し、創業者特別顧問となる。2003年NPOイエロー・エンジェルを設立し、理事長に就任。2007年クラシック音楽専用の「宗次ホール」を名古屋市内にオープン。2012年株式会社ライトアップ設立し、代表就任。
著書は、『繁盛させたければお客様の声を聞け! 』(旭屋出版)、『日本一の変人経営者』(ダイヤモンド社)、『Coco壱番屋 答えはすべてお客様の声にあり』(日本経済新聞出版社)『夢を持つな!目標を持て!』(商業界) など。

宗次:朝の掃除は、いい運動にもなっています。1時間半から2時間掃除をすると、1万歩くらいは歩けますからね。
私は幼いころとても貧しくて、ろくに食べていませんでした。今はその反動でたくさん食べてしまう癖があるんです。だから、この掃除の習慣がなかったら、めちゃめちゃな体になっていたかもしれません(笑)。

山下:子どものころに食べるものがなくて、「雑草も食べた」という話を宗次さんから伺ったとき、私が深刻な顔で「そうですか……」と答えたら、「元祖草食男子です(笑)」とユーモアで返してくださって。

宗次:私の家庭は、名古屋市内でも一、二を争う貧しさだったと思います。小学5、6年生くらいまで、お弁当を持っていかなければならない日は、自分でうどん粉とメリケン粉を焼いて、塩味だけで食べていましたから。
家には電気がないので、ロウソクを灯していました。唯一家具と呼べるのは、りんご箱。六畳一間で、日雇いの競輪狂いの父親と暮らしていました。
私が13歳のときに母親との同居がはじまって、転居してからようやく電気が通りました。中古の5000円のテレビが家にはじめて置かれたのは、中学3年生の卒業間際です。

そんな生活でしたから、高校には行かずに働きたかったのですが、進学したくない理由を先生には言いたくなかったですからね、恥ずかしくて。
しかたなく、先生に勧められるがまま高校受験をしたら受かってしまいました。ところが、「入学の手続きをしなければ」と、入学書類を準備しているときに衝撃の事実が判明したんです。

区役所に戸籍謄本の書類を取り寄せたら、誕生日が違っていて、親が違っていて、名前が違っていた。15歳のときでした。

山下:今のユーモアにあふれる宗次さんからは想像できない、ありえない経験ですね。苦しい体験を乗り越えたからこそ、今の宗次さんがあるのかと思うと言葉がありません。