「僕にはもう時間がない」

 エヴァリスト・ガロアは1811年にフランスのパリ近郊にあるブール・ラ・レーヌという小さな村で生まれた。

 12歳のとき、ガロアはパリのリセ(後期中等教育機関)の中でも超名門校である「ルイ・ル・グラン」に進む。このリセで、ガロアはルイ=ポール=エミール・リシャールという教師に出会う。それまでのガロアは数学に偏執狂的に熱中するあまり他の学科はおろそかにしていたため、不良学生の烙印を押されていたという。しかし名教師として名を馳せたリシャールは「この生徒は他のどの生徒より、はるかにずば抜けている」と評し、その天才性を見抜いた。

 ガロアもリシャールには心を開き、毎日のように議論を交わした。その中でガロアはガウスやラグランジュ、コーシーといった当代きっての数学者達の仕事ぶりを知り、最先端の数学についての知見を得ることになる。

 名教師と出会い、ガロアの才能はまばゆい光を放った。しかし一方で、晩年(と言ってもまだ10代ではあったが)のガロアは度重なる不幸に見舞われている。18歳のときには父が政治的陰謀に巻き込まれて自殺し、葬儀の2日後に失意の中で受験したエコール・ポリテクニーク(理数系高等教育機関)の2度目の受験に失敗した。―エコール・ポリテクニークというのは、多くの著名な科学者や複数の大統領を世に送り出しているフランスの超エリート校である―。

 また翌年には数学論文大賞の論文を受け取ったジャン・バティスト・ジョゼフ・フーリエが急死してしまったため、ガロアの論文は散逸してしまう。こうした不運が続いたことでガロアの世間にたいする不満・鬱憤が膨らんでいったことは想像に難くない。

 そんな中、7月革命(1830年7月、パリ市民が起こしたブルボン復古王朝打倒の革命)が起きる。革命の機運に乗じて、ガロアはしだいに政治活動に傾倒していき、ついには逮捕・投獄されてしまう。

 パリ市内でコレラが流行したことから、1832年の3月に、ガロアは監獄から療養所に移される。この療養所で失恋を経験し、自暴自棄になったガロアは、その年の5月、今度は婚約者のいる女性と恋仲になり、それがもとで女性の叔父と婚約者から決闘を申し込まれてしまう。

 この決闘で深い傷を負ったガロアは瀕死の状態で病院に運ばれた。駆けつけた弟が泣きじゃくる中、「泣かないでくれ。20歳で死ぬのには、ありったけの勇気が必要なのだから」という言葉を残してガロアは息を引き取ったそうである。わずが20年と7ヵ月の生涯であった。

 決闘の前夜、死を覚悟したガロアは夜を徹して友人のオーギュスト・シュバリエに長い手紙を書き遺している。それまでの研究成果の概要が綴られたこの手紙の内容は、生前に発表された論文や他の遺稿とともに1846年に発表された。その後ガロアの研究は大きく発展し、特に「群論」は現代の数学には欠かせない基本的な考え方になっている。

 ガロアがシュバリエに宛てた最後の手紙には「僕にはもう時間がない」という走り書きが添えられている。もしガロアが人並みの寿命を全うできていたら、数学の歴史は今とは随分違ったものになっていたことだろう。