たしかに、僕たちは『I/O』を作ってきた経験がある。しかし、塚本さんと僕は記事を書くだけだったし、郡司さんはできた雑誌を売るのが仕事だった。僕たちが書いた記事を整理・編集して、誌面レイアウトをして、印刷・製本をするという、いわゆる編集業務はすべて星さんが担ってくれていた。
つまり、僕たちは編集業務については、な~んにも知らなかったのだ。だからこそ、「その月」のうちに創刊という無謀なスケジュールを考えた。記事さえ書けば、ちょちょいのちょいで雑誌はできあがると思っていたのだ。“怖いもの知らず”といえば、そのとおりだが、だからこそ、熱気を圧縮パッケージしたような雑誌が出来上がったような気もする。
創刊を決めたその日は、「こんな雑誌にしよう!」とおおいに盛り上がったのだが、翌日から、創刊までの具体的な段取りを考えようとして、自分たちが何も知らないという事実に気づかされた。そもそも、僕たちは、自分たちが手書きした汚い原稿が、どうやって綺麗な印刷物になるのかも知らなかったのだ。
早速、僕たちは書店で本づくりや編集に関する書籍を買いあさって、一から勉強を始めた。そして、雑誌づくりにはさまざまな人々が関わっていることを知った。僕たちの手書き原稿をもとに、写植屋さんが一字一字活字を拾って誌面をつくり、製紙会社から紙を調達し、印刷所で印刷をして、製本所で雑誌のかたちにする。これらの工程を経て、はじめて雑誌は出来上がるのだ。
ところが、僕たちには、協力してくれる写植屋さんも印刷所も製本所もない。
これじゃ、雑誌なんてできない!
「当たってくだけろ」で道は拓ける
そこで慌てて、分厚い電話帳をひっぱり出した。
そして、あいうえお順で印刷所に片っ端から電話をかけまくって、「出版社をつくって、今月中に雑誌を創刊することにしました。印刷を引き受けていただけませんか?」「同人誌のようなものではなく、書店で売る雑誌です」と訴えたが、もちろん相手にしてもらえない。
それでなくても印刷所は忙しいのに、何の信用もない若造が電話をしてきて「印刷をしてくれ」と言われても、まともに相手にするはずがない。「掛け」で印刷を引き受けて、飛ばれたら痛手だから、当たり前のこと。「ちょっと今忙しいから」とガチャッと切られるのはまだいいほうで、無言で切られたこともあった。「ふざけるな」と思われたのだろう。
それでも、「当たってくだけろ」とばかりに、諦めずに電話をかけ続けた。というか、そうするほかなかった。そして、十何軒もかけた頃だったろうか、ようやくまともに話を聞いてくれる印刷所にぶつかった。
文京区にあった第一印刷工芸社という小さな印刷所の社長さんだった。「無茶言うなぁ……」と呆れながらも、「とにかく、一度来てみなよ」と言ってくださったのだ。塚本さんが、買ったばかりのバイクに飛び乗って、印刷所にすっ飛んで行って話をまとめてきてくれた。
写植屋さんや造本所なども同じ調子だった。
塚本さんの奔走によって、なんとか引き受けてくださる会社を見つけることができた。みなさん、無茶な相談に困った顔をしながらも、“若気の至り”を面白がり、温かく応援してくださった。このとき手を差し伸べてくださった方々には、たいへんな恩義があると思う。改めて、深く御礼をお伝えしたい。
ただし、みなさん創刊スケジュールには言下に“ダメ出し”をされた。納得した僕たちは、「その月」のうちに創刊するのをあきらめ、2ヵ月後の1977年7月に創刊することにした。いわば、2ヵ月の猶予ができたわけだが、現場はしっちゃかめっちゃかだった。