会社の設立登記、新オフィスへの引越し、協力会社探し、雑誌名と雑誌コンセプトの考案、企画内容やデザインの決定、ライターの募集、取材・執筆……。やることは山積している。そのすべてを、素人の僕たちが同時並行で進めたのだから、しっちゃかめっちゃかになるのも当然だった。

「満員電車」のなかで働く

 しかも、青山の新オフィスはたかだか8坪のスペースだった。

 正規のメンバーは、郡司さんと塚本さんと僕に加えて、後に塚本さんの奥さんになる女性の四人だったが、そこに、アルバイトのライターなども入ってくる。常時、10人ほどの人間が8坪のオフィスで仕事をしていたのではないかと思う。

 いくつかデスクを並べて、バカでかい中古のコピー機を持ち込んだら、それだけで部屋はギッチギチだ。そこに10人の人間が入るのだから、まるで満員電車のなかで仕事をするようなもの。来客があったときは、マンション一階の喫茶店に案内して打ち合わせをした。

 取材から帰ってくると、デスクは他のメンバーが原稿書きに使っていて埋まっている。仕方がないから、廊下に寝っ転がって書いたり、ときにはベランダに出て書いたりもした。僕がお気に入りだったのは、風呂だ。風呂桶のなかに座って、半分に折った風呂の蓋をデスク替りにする。「個室」だから、集中しやすかったのだ。

 編集部に泊まり込みで、ほぼ住んでいたといってもいいくらいだった。眠くなったら机の下でごろりと横になって、目が覚めたら仕事をして、仕事が終わったらまた寝る。その繰り返しが延々と続く毎日だった。

 机の下に隙間が見つけられない時には、風呂場で寝たり、コピー機の下で寝たこともある。まだ働いている人がコピーをとったときに、トナーの粉がブワーッと吹きつけてきて、顔が真っ黒になったメンバーもいる。夜中に廊下で塚本さんと寝そべりながら編集会議をして、そのまま二人とも眠りこけてしまったこともあった。

 ちなみに、5月上旬に雑誌創刊を決め、アスキー出版を設立したのは5月24日。25日には給料も出した。ただし、金額は10万円。郡司さんは、前の会社に勤めていた頃には25~26万円をもらっていたから、“雀の涙”の給料だった。しかも、この10万円も、交通費や資料代などで、あっという間に消えていった。

「仮説」こそが人生を導く

 そんな毎日だったが、苦しいと思ったことはなかった。

 1日15時間ぶっとおしで仕事をしても、集中力は尽きなかった。自分がやりたいことをやっているのだ。それが辛いことであるはずがなかったし、凡才である自分が、コンピュータの世界で戦うには「集中力」と「粘り」しかないとも思っていた。まさに「夢中」だった。

 僕が、『月刊アスキー』創刊号の巻頭言を書いたのは、お気に入りのお風呂の中だった。ひらめくものがあって、一気に書き上げた。一言で言えば、「コンピュータはメディアである」という宣言だが、僕のその後の人生は、この「ビジョン」を実現するためにあったと思う。

心の中で思い描いた「ビジョン」が、人生を導いていく【西和彦】月刊アスキー創刊号

 パソコンも、携帯電話も、インターネットもなかった当時は、あまり理解してもらえなかったが、この「仮説」が正しかったことは、現代の僕たちの生活が証明していると思う。このことに、僕はいまでも誇りを感じている。一部を抜粋しておきたい。

「マイクロコンピュータは家電製品にも積極的に使われて、産業としての地位を確立しつつありますが、今まで大型が担ってきた計算とか処理などの機能を備えたコンピュータが個人の手の届く商品となったら、それをどのように分類したらいいのでしょうか。

 電卓の延長ではないと考えます。家庭や日常生活の中に入ったコンピュータは、テレビやビデオ、ラジオのような、いわゆるメディアと呼ばれる、コミュニケーションの一手段になるのではないでしょうか。テレビは一方的に画と音を送りつけます。ラジオは声を、コンピュータはそれを決して一方的に処理しません。誇張して言うなら、対話のできるメディアなのです。個人個人が自分の主体性を持ってかかわり合うことができるもの──これが次の世代の人々が最も求める解答であると思うのです」

心の中で思い描いた「ビジョン」が、人生を導いていく【西和彦】西 和彦(にし・かずひこ)
株式会社アスキー創業者
東京大学大学院工学系研究科IOTメディアラボラトリー ディレクター
1956年神戸市生まれ。早稲田大学理工学部中退。在学中の1977年にアスキー出版を設立。ビル・ゲイツ氏と意気投合して草創期のマイクロソフトに参画し、ボードメンバー兼技術担当副社長としてパソコン開発に活躍。しかし、半導体開発の是非などをめぐってビル・ゲイツ氏と対立、マイクロソフトを退社。帰国してアスキーの資料室専任「窓際」副社長となる。1987年、アスキー社長に就任。当時、史上最年少でアスキーを上場させる。しかし、資金難などの問題に直面。CSK創業者大川功氏の知遇を得、CSK・セガの出資を仰ぐとともに、アスキーはCSKの関連会社となる。その後、アスキー社長を退任し、CSK・セガの会長・社長秘書役を務めた。2002年、大川氏死去後、すべてのCSK・セガの役職から退任する。その後、米国マサチューセッツ工科大学メディアラボ客員教授や国連大学高等研究所副所長、尚美学園大学芸術情報学部教授等を務め、現在、須磨学園学園長、東京大学大学院工学系研究科IOTメディアラボラトリー ディレクターを務める。工学院大学大学院情報学専攻 博士(情報学)。Photo by Kazutoshi Sumitomo