法を見るものは縁起を見る
今回は「お寺の掲示板大賞」の常連、広島市中区八丁堀と繁華街にも近い超覺寺の掲示板から。山号・院号の林鶯山憶西院は、後醍醐天皇に仕えた北畠大納言親房の草庵に由来する真宗大谷派の古刹です。
この言葉は、笑い飯哲夫さんと釈徹宗師の共著『みんな、忙しすぎませんかね?――しんどい時は仏教で考える』(大和書房)の中に出てきます。
昔の戸建ての家では庭に面して縁側がありました。人々が気軽に集まれる縁側は人と人とがつながる交流の場であり、ご縁を結ぶ共有スペースのような存在でした。それは家を隔てる垣根や塀ができていくことで、失われていきました。
都市部では畳の部屋で暮らす人も少なくなり、集合住宅にはそもそも庭がありません。若い人たちは、絵本の挿絵で見たくらいで、縁側の存在を実感する機会は少ないでしょう。
縁側の消失は家だけでなく、わたしたちの心にも当てはまるかもしれません。個性重視の風潮の中、他人との違いを強調するために自我という名の垣根を高くすることに固執し、心の中に縁側を作る余裕がない人が増えているような気がします。
そして、高く強固に作り上げられた垣根によって、他者だけでなく、自分自身も強く圧迫され、苦しみが増してきているようです。
果たしてそんなに「垣根」にこだわる必要があるのでしょうか? 天台宗僧侶で東京・碑文谷にある円融寺住職の阿純章師は、著書『「迷子」のすすめ』(春秋社)の中でそれを「城壁」と表現しながら、以下のように説いています。
仏教を学ぶうちに少しずつ分かってきたのは、「自分を、自分を」と言って自分を築き上げているつもりが、実はそれが自分の中身ではなく、結局のところ自分と他人との間の城壁を築いているだけだということだ。
競い合って自分のつくった城壁が誰よりも立派で特別かと優越感を抱いたり、実際よりもよく見せようと虚栄を張ったり、逆に自分より立派な壁を見て自信を失い劣等感や不安を抱いたりしているが、その城壁の肝心の中身はというと、実はカラッポなのである。(中略)
自分を特別にしようとするから、特別さを味わえないと自分の存在が無意味に感じられて、不安や恐怖にさらされたり、こんな自分ではダメだと自己否定したりして、自分でつくった城壁にかえって押しつぶされそうになる。なまじ城壁なんてつくるものだから窮屈な思いをするのだ。
そんなちっぽけな城壁に依存して引きこもっているのではなく、思い切って城壁を取っ払ってみたらどうだろう。そうしたら、あらゆるものすべてがそのまま自分とつながっていることが実感できるのではないだろうか。
「自分らしさ」で悩んでいる人にとっては、この文章がヒントになるのではないでしょうか?みうらじゅんさんが以前、「自分なくし」を提唱していました。「自分なくし」とはある意味、この「城壁」(垣根)を取り払うことです。
『縁起を見るものは法を見る。法を見るものは縁起を見る。』(『中阿含経』)という大変有名な言葉があります。ここでの「法」とは仏教の教えのことであり、「縁起」とはすべてのものはつながり合っているということです。ですから、仏教の教えを理解した者は、自我の意識が薄まり、縁起(つながり)を感じるようになるのです。
そして、仏教は「自我という垣根は単なる妄想の産物であり、そもそも存在しない」ということに気づく教えであるともいえます。わたしたちの悩みや苦しみの大半は自分自身が無意識に作り上げた垣根から発生します。自我という名の垣根に固執するのではなく、さまざまなものを温かく受け入れられる「縁側」を心の中に設けたいものです。
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