佐藤優氏絶賛!「よく生きるためには死を知ることが必要だ。」。「死」とは何か。死はかならず、生きている途中にやって来る。それなのに、死について考えることは「やり残した夏休みの宿題」みたいになっている。死が、自分のなかではっきりかたちになっていない。死に対して、態度をとれない。あやふやな生き方しかできない。私たちの多くは、そんなふうにして生きている。しかし、世界の大宗教、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教などの一神教はもちろん、仏教、神道、儒教、ヒンドゥー教など、それぞれの宗教は、人間は死んだらどうなるか、についてしっかりした考え方をもっている。
現代の知の達人であり、宗教社会学の第一人者である著者が、各宗教の「死」についての考え方を、鮮やかに説明する『死の講義』が発刊された。コロナの時代の必読書である、本書の内容の一部を紹介します。連載のバックナンバーはこちらから。

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バラモン教もヒンドゥー教も同じ

 インド文明は、「真理を覚(さと)る」ことに最高の価値を置く。バラモン教もヒンドゥー教も、仏教も、この点は同じだ。

 「真理」とは何か。世界のあるがまま、出来事のあるがままを、認識することだ。その認識、すなわち「真理を覚る」ことは、可能である。そして、「真理を覚る」ことは、最高の価値がある。インドの人びとはそう確信している。

 真理を覚るとは、この世界のあるがまま、すなわち因果関係の連鎖のネットワークを認識することである。すると、それは、自然科学と似ている。自然科学も、この世界の因果関係の連鎖を、認識し尽くすことを目標にするからである。

 インドの宗教と自然科学は、では、やっていることがまったく同じか。目標は、同じかもしれない。でも、方法が異なる。

自然科学の方法

 自然科学は、観察と実験にもとづく。自然科学はものごとを一度に認識しようとしない。それをばらばらに分解する。物理/化学/生物/地学/天文学/…。それがさらに細かく分かれている。物性物理/電子物理/…。それがまた分かれている。関心を、ある範囲に絞る。

 そして、実験をする。実験とは、条件をコントロールすること。考えたい要因(変数)間の関係を取り出すため、それ以外のすべての要因(変数)を一定に保つ。このように条件をコントロールして、自然法則の一部を取り出そうとする。あとは、そうした個別の結果をつなぎ合わせて行けば、世界の全体を認識できるだろう。

 科学者は、一度に全体を認識しようとしたりしない。一部で我慢する。将来科学が進歩すれば、やがて自然の全体がわかるだろう、と期待する。