失敗をしたから「本質」が見えた

 それを痛感させられたことがある。

 入院中だった大叔母を見舞ったときに、「僕の作ったパソコンのMSXが欲しくないか?」と尋ねたのだ。すると、大叔母は「いらない」と答えた。

「ワープロができるよ」と言うと「ペンがあるからいい」
「計算ができるよ」と言うと「電卓があるからいい」
「電子メールがあるよ」と言うと「電話があるからいい」
「ゲームができるよ」と言うと「テレビがあるからいい」と言う。

 取りつく島もなかった。精一杯のエネルギーを注ぎ込んで開発したMSXが、なぜボールペンと電卓と電話とテレビに勝てないのか……。がっくりしながら、考えた。

 それで、ハッと思った。

 僕は、安くて使い勝手がいいパソコンを作れば、一家に一台普及すると思っていたけれど、これが間違っていたのだ。どんなに安くても、どんなに機能がついてても、それだけでは普及しない。だって、パソコンがなくても、他のもので用は足せるのだから。実際、任天堂のファミコンは1万4800円で大ヒットしたけれど、それでも、テレビや電話みたいに一家に一台というところには程遠かったのだ。

 では、何が足りないのか?

 ずっと考え続けて、ようやく気づいた。ネットワークが足りないんだ、と。

 電話もテレビも、ネットワークで結ばれているから、一家に一台ずつ普及しているのだ。車もそうだ。

 道路網というネットワークで結ばれているから、みんな車を買う。道路網が整備されてなければ、ランボルギーニが10万円で売られてたって、誰も買わないだろう。道路網がなければ、どんな高級車もただの「箱」にすぎないのだ。

 それは、パソコンも同じはずだ。パソコンも、ネットワークがなければただの「箱」。ネットワークで繋がれてはじめて、一家に一台の必需品になるのだ。僕は、『月刊アスキー』の創刊号で、「コンピュータは対話のできるメディアなのだ」と書いた。それは間違ってはいない。しかし、因果関係が逆だったのかもしれないと思った。

 パソコンがネットワークされて、対話できるメディアになったときに、はじめてパソコンは本格的に普及するのだ。つまり、パソコンは、ネットワークされることによって、はじめて「パーソナル・コンピュータ」になることができる、ということだ。

 僕は、この「本質」を、MSXの失敗を通して学んだ。そして、この学びが、後のパソコン通信事業「アスキーネット」へとつながっていった。

 もうひとつ、MSXの名誉のために言っておきたいことがある。

 MSXから10年以上も過ぎてからのことだ。僕は、世界中の若くて優秀なプログラマーと知り合ったが、多くの人がこんな話をしてくれた。

「私が初めて出会ったコンピュータは、父親が買ってくれたMSXでした。あの出会いがなければ、私はコンピュータの仕事をしていません」

 嬉しかった。僕たちが、MSXに精一杯に込めた「思い」は、確かにユーザーに伝わっていたのだ。そして、MSXは今でも使ってくれた人たちの記憶の中に生きていると思っている。

【伝説のパソコンMSX】仕掛け人がついに明かす「失敗の本質」西 和彦(にし・かずひこ)
株式会社アスキー創業者
東京大学大学院工学系研究科IOTメディアラボラトリー ディレクター
1956年神戸市生まれ。早稲田大学理工学部中退。在学中の1977年にアスキー出版を設立。ビル・ゲイツ氏と意気投合して草創期のマイクロソフトに参画し、ボードメンバー兼技術担当副社長としてパソコン開発に活躍。しかし、半導体開発の是非などをめぐってビル・ゲイツ氏と対立、マイクロソフトを退社。帰国してアスキーの資料室専任「窓際」副社長となる。1987年、アスキー社長に就任。当時、史上最年少でアスキーを上場させる。しかし、資金難などの問題に直面。CSK創業者大川功氏の知遇を得、CSK・セガの出資を仰ぐとともに、アスキーはCSKの関連会社となる。その後、アスキー社長を退任し、CSK・セガの会長・社長秘書役を務めた。2002年、大川氏死去後、すべてのCSK・セガの役職から退任する。その後、米国マサチューセッツ工科大学メディアラボ客員教授や国連大学高等研究所副所長、尚美学園大学芸術情報学部教授等を務め、現在、須磨学園学園長、東京大学大学院工学系研究科IOTメディアラボラトリー ディレクターを務める。工学院大学大学院情報学専攻 博士(情報学)。Photo by Kazutoshi Sumitomo